頂上に続く階段を昇りながら、師のこと、愛を捨てるに至った過去を話したサウザーは、不意にを連想した。
それはもしかしたら、過去に一度彼女が師と同じ言葉を口にした所為かもしれない。

サウザーはという娘が苦手だった。
会った当初はそうでもなかったが、敵の自分の身の上を心配する彼女と話したときからだろうか。
嫌悪しているのではない。
ただ、興味本位で掠め取った口付けに対して見せた彼女の反応や、臆病者のくせに強がるところ。
自分を本心から憎もうとしない姿勢を思い出すと、心の隅に溜まった靄がよりいっそう酷くなるのだ。
まるで締め付けられるような、胸に鉛を落とされたような奇妙な感覚をおぼえる。
だからサウザーは、2度目に彼女に会った時酷く動揺した。

以前とは別人のように落ち着いた態度のに、何故だか腹が立った。
知らない人間にあったような感覚に戸惑い、思った。

もう一度唇を奪ってやれば、今度はどんな反応を見せるのだろうか、と。

不意に掠めた柔らかい唇は感触も温かさも変わらなかった。
大きく開かれた瞳も、声も―――けれど。
はもう頬を染めることはなかった。
ただ本当に、同じ表情で驚いて見せた――それだけだ。

つまらない。
もうこんな小娘に心を騒がせる必要など無い。
時間の無駄だ。
そう思うことにした。
けれどサウザーはを殺せなかった。
殺す気にはなれなかったのだ。
だから逃がした。

レジスタンスを襲うとき、どうせ巻き込まれて死ぬだろう。
犯されて嬲り殺されてしまえばいい。
あの日顔を真っ赤にして自分の前から逃げた娘は、男に組敷かれて素直に怯え、虫の好かない他の男に身を任せていた彼女は―――居なくなったのだから。

だから消えてしまえばいい。
そうなればの存在が二度と自分に奇妙な思いを抱かせなくなる。
帝王の威厳は保たれる。

そして今日、やっとシュウを追い詰め、遂にシュウを始末できると思った矢先、最後の最後で彼女は全て台無しにしてくれた。
サウザーは当然腹が立ったし、本気で殺してやろうかと思った。
けれど、結局振り上げた拳はには届かなかった。

また、彼女が欲しくなった。

まるで狙いすましたようなあの絶妙のタイミングでの反撃。
自分に啖呵を切った彼女の脚は震えていたけれど、それが余計に彼女らしく見える。

彼女は変わっていない。
けれど成長してきた。
サウザーはを見ると騒ぐ胸など、もうどうでもよかった。
ただ彼女が欲しくなったのだ。


(しがない小娘と思っていたが、見所がある)

(今度こそ俺様に逆らえぬ身にしてくれる!)


自分が抱く想いを、人が“恋”と呼ぶことを、サウザーはついぞ知ることはない。



「君はサウザーと言う男が嫌いか?」
「え?」

ケンシロウとサウザーの戦いを見守っていたトキは、不意にに問いかけた。
突然の質問に、はしばらく考えてから答えた。

「…嫌いじゃない、とは思います。腹が立つし、我侭で…でも理屈は合ってて、悔しいけど強いってことは本当で……正直、嫌いだとかそういうことはよくわかりません」

答えながら、は過去2度の接吻を思い出した。
一度目は多分、ただの気まぐれ。
では二度目は?

(どうしてあんなことしたんだろう)

最後のキスの意味なんてわからない。
彼が、どんな気持ちで何を思ってあんなことをしたのかなんて。
先ほどの言葉もだ。
本当に気まぐれやイヤガラセだったのかもしれないし、そうではないのかもしれない。
しかしそれを今更気にしたところで、済んだ事は元には戻らない。
ただ事実だけが残るのみだ。

それに。


(意味なんて、今更わかってもどうしようもない)


絶対にただからかわれただけに決まってる。
いや、そうでなくてはならない。
あの男は敵なのだから、シュウを傷つけたのだから。
大体、彼は自分で言ったではないか。
聖帝十字陵は師の墓であると共に、サウザー自身の愛と情の墓でもあると。

「…私はただ、あの人がシュウさんにしたことが許せなかっただけです」

だから、どうかサウザーには勝たないで欲しい、ケンシロウに勝って欲しい。
けれど。

「ただ、負けても死んで欲しいとは思いません」
「……
「甘い事を言うなって言われるのはわかってます。でも、私も自分を守るために誰かを殺すようになってから…思うんです」

刃を振るい、時には相手の命を奪う。
これはここで生きるためには必要な力だ。
それでも、とは思う。

「命は…簡単に背負えるほど軽くない」
「………」
「生きたいなら、奪った命は背負わなければいけない。そしてその重さを理解しなきゃいけないって」

誰かの命を奪ったら、対価は自分が行き抜くことだ。
はそう考えるようになっていた。

「だからこそ、負けたからって死んで終わりにして欲しくない。…何もかも、チャラにして欲しいなんて思えません」

拳士の真剣勝負は生か死、それだけだ。
しかし誰かを支配する立場になったら、最後まで責任を取るのが上に立つもの義務のはず。
サウザーは悪行を働いているけれど、何万人もの部下を従える男だ。
ならば、彼がケンシロウに負けて命を落としたらサウザーに従っている人間は行き場が無くなる。
今まで命を奪われた者もその死の意味を無くす。
王が死ぬのは、新たな王になる者がいる時だけだ。

だが、サウザーはおそらく今、王というより拳士としてケンシロウと闘っている。
だからケンシロウに敗れた時は、きっと一人の拳士として死ぬのだろう。
彼の部下は今度は追われる立場になるが、彼は先に天国に行き、ケンシロウと拳を交えた男として彼の強さの糧となる。
元より人一倍プライドの高い男が、敗れて尚生きようとも思わないだろう。

にはその生き方に間違っているとは言えない。
言う資格も無い。
は彼らと同じ土俵には立てないからだ。
肉体的にも、精神的な強さも、拳を交わして知る何かを知らない。

だからは悔しくて堪らない。
止めることが出来ない自分が、気持ちだけが焦る現実が。
どうにかして生きて欲しい、なんて、傲慢すぎるのだろうか。

「…私の考え方は、間違っていますか」

闘いを見つめながら、は哀しそうに呟いた。
そんなの肩を軽く叩き、トキは微笑む。

「思想に正解も不正解もない。君に信じる道があるのなら、私は間違っているとは思わない」
「トキさん…」

励ましの意を含む言葉にもまた小さく笑うと、静かに頷いて闘いの行く末に想いを馳せた。

誰も真に間違ってはいないのだ。

誰かが信念を曲げなければならないだけ。

そして片方が信念を曲げた結果がどうなろうと、そう”成る”しかない。

世界は、人は、そういうもの。

空は澱んで、厚い雲が雷鳴を轟かせている。
ケンシロウもサウザーも、どうやら構えを取ったらしい。
稲妻が走り、大粒の雹が降りだした。
サウザーが跳躍し幾度かケンシロウと打ち合い、高くサウザーが宙に舞った時、ケンシロウが拳を繰り出した。
続いてサウザーの背後の岩が穿たれる。
にはよく視えないが、サウザーの勝機はこの時潰えたようだった。

「ひ…退かぬ!媚びぬ、省みぬ!!」

再び飛んだサウザーの姿に、はただ拳を握った。

(どうして)

「帝王に逃走はないのだ―――!!」

(どうして、戦いが続くんだろう)

サウザーが高々と空を翔る。
しかし全ての力を振り絞った飛翔は、ケンシロウには届かなかった。

「北斗有情猛翔波!!」

力強い拳に打たれ、サウザーが石段に倒れる。
それを目にして、トキが呟いた。

「決着がついたようだな」


師の傍らに向かうサウザーは、ケンシロウが口にしたぬくもりを思い出し、不意に視線を下に向けた。

「………」

遠くてもすぐにわかる小柄な体躯。
風に靡く黒い髪。
初めて城に留まらせたあの日、は敵も味方も無く、バルコニーの縁に立つ自分を心配していた。
強引に奪った唇の感触が蘇る。

(あれもまた…人のぬくもりなのか…)

もしかしたら自分は、どこかでぬくもりを求めていたのかもしれない。
ぬくもりを彼女から与えられる事を望んでいたのか。
否、――違う。

ただ羨ましかったのだ。
愛されている彼女が。
ぬくもりを与えられていたを奪ってやりたかった。
こんな子供じみた自分を、師は笑うだろうか。

「お…お師さん…」

師の膝はあの日と変わらず硬く、そして優しい。

「む…むかしのように……もう一度ぬくもりを…」

慕い続けた師に寄り添って、聖帝サウザーは最期の時を迎えた。
敗れた帝王に共鳴するかのように、聖帝十字陵もまた音を立てて崩れたのであった。






「………聖帝…サウザー……」

師の遺骸と共に塵に埋もれていく帝王を姿が見えなくなる瞬間まで見つめ、は唇を噛んで俯いた。
終わったのだ。

初めてのキスの相手で、自分勝手で、ほんの短い間に散々自分を振り回した男が、死んだ。

その事実が、思いのほか重く圧し掛かる。

(なんで)

(何でいつも、こんな終わり方なんだろう)

聖帝十字陵は既にただの瓦礫の山へと形を変えつつある。
そこに埋めたという彼の心が、慕った師とともにあればいい。
彼の死が、せめて最後だけは甘やかであるようにと祈り、は目を瞑った。



願わくば、せめて。



彼の帝王に、安らかな眠りを。