が荒野を駆ける少し前、リュウガは城の自室で部屋の隅に置かれたものを見つめていた。
アイスブルーの瞳の先には、1.5メートルほどの長方形の箱と、布がかかった大きな台の様なものがある。
どちらも、もし彼女が戻ってきたら贈ろうと思っていたものだった。

「……、」

名を呟こうとして口を開き、やめる。
今更どうにもならないことなのだ。
この箱も、布がかかったものも、彼女に贈る事ができぬまま朽ちていくのだろう。
時間が無い。

トキはラオウと遂に決着をつける決心をしたらしい。
あの二人の力は同等だ。
しかしトキは病人、恐らく勝つのはラオウだろう。
ラオウが勝てば彼は再び拳王府に戻ってくるはずだ。

そうなればリュウガは再びラオウの牙に戻り、今の役目は終わる。
ならば自分が真っ先にすべき事は2つ、天狼の宿命を果たす事との始末だ。
天狼星の下の宿命とは即ち、世が乱れたとき北斗を戦場へ誘う事。
トキが倒れれば、残る北斗は2人。
どちらがより乱世を治められるか。
リュウガに残る使命はそれを見極める事である。

しかしケンシロウの実力には、まだむらがあると聞く。
一度対面できればもう少しケンシロウという人物がわかるだろうが、その対峙も好意的なものにはならないだろう。
だが宿命を果たすためであれば、仮令ケンシロウにどんな印象を持たれようが、何が何でも彼の本質をこの目で見なければならないのだ。

そして残るの始末だが、リュウガには既に彼女を手にかける気は無かった。
どうしようもないほど、狂おしいまでに彼女が大切でならない。
いくら腹を括っても、を探し出していざ命令どおりに彼女を殺すとなれば、自分の手はたちまち動けなくなるだろう。
リュウガはそれを良くわかっていた。
目を逸らし続けていたが、ラオウに命令を受けたその日からわかっていたのだ。
よってこれは完遂できない。
最初で最期の命令違反だ。
けれど、それでいい。
彼女だけは逃がしてみせる。
にだけは生きて欲しい。




『私があなたの事を思い出したら』




仮令彼女との約束が――




『―――また、一緒にお話ししましょう!』




永遠に果たせなくなろうとも。



南斗の街の地下には核戦争前に作られた太い水路が走っている。
縦横無尽に走る水路は地上からは届かない場所にあり、上から土を掘っても硬い外殻で掘削機を阻む。
水路だとは誰にも知られていないそれらは、いつの間にやら改造され私物化されていた。
一人の男によって。

街の入り口から数キロ離れた岩山の麓で、はバイクを停めた。
この先には枯れ井戸がある。
の目的地はそこだ。

バイクを降りて人目につかぬ場所に隠し、井戸に入ると鉄の梯子が添えつけられている。
錆びてざらついたそれは、今にも壊れてしまいそうだ。
足を踏み外さないように慎重にその梯子を降りて井戸の底に辿りつくと、円形に積まれた石がを囲んでいる。
その中の一つを注意深く探すと、はあった、と小さな声を上げた。

「これだ」

ぐっと力を入れてその石を押すと、がこん、と何かが外れたような音が狭い井戸に響き目の前の井戸の壁の一部が低い音を立てて前にスライドし、両側に開いた。
湿った黴臭い匂いが鼻をつく。

「…うぇ…」

舞い上がった匂いに咽みながら中に足を踏み入れると、自動的に入り口が塞がれて明かりが点る。
灯りに照らされたそこは昔の水路で、四角いチューブ状の道が四方八方に分かれている。
通路を照らすのは電灯だ。裸電球が上からぶら下がって揺れているのである。
さながらSF映画にでも出てきそうな造りだ。

そこを何処にも曲がらず真っ直ぐに進むと、鉄の扉が見えてくる。
足早に道を辿ったは、現れた鉄の扉に駆け寄ると扉を叩いた。

鉄のぶつかる音が水路に反響して、ごぅんごぅん、と言う音の波になりの耳を何度も打つ。
辛抱強く音に耐えて待っていると、ようやく中で人が動く気配がした。

「…うるさいなぁ、今開けるよ」

がきん、と鍵を開けたらしい音の後で開いた鉄の扉の中から現れたのは、無精ひげの痩せこけた白衣の男。

”薬屋”と呼ばれている人物である。

蛍光灯の下から、いかにもさっきまで寝ていました、と言った様子で出てきた薬屋は、死んだ魚のような目でを見ると口を開いた。

「…君は…えー、確か琥珀と一緒にいた…誰だっけ?」
…じゃなくて、ジュノです」
「あーそうそう。何しに来たんだい」
「薬を頂きに。武器に塗る方を貰いたいんですけど」

が答えると彼は手をぽんと打ち、頷いた。

「ああ、あれか。ちょっと待ってー」

どうにもやる気が無さそうに聞こえるのは、彼に本当にやる気が無いからだろう。
この男はやる時はやるのだがやらなくていい時はとことんまで何もしないのだ、とは今は亡きディ・ロンによくよく言い含められていた。

暫く待つと、青白い光の下から薬屋が顔を出し、手にしていた小さな紙袋をに手渡した。
中身を検めると、ガラスの小瓶に入った透明の液体が藁半紙の袋の中で揺れた。

「この間君に渡したのと一緒だよ。また受け取りに来るってことは、使い勝手は良いみたいだねぇ」
「はい。即効性が強いところは気に入ってます」
「おやぁ、なんだ。随分と物怖じしなくなったじゃぁないの。君はもっと人を傷つけるのを嫌がってると思ってたんだけど」
「嫌ですよ。でも、もうそんなこと言っていられなくなりましたから」

淡々と答えると、はバックパックからいくつかの薬草を取り出した。
ここに来る前にシュウのアジトで分けてもらったのである。

「足りますか?」
「少し多すぎるように見えるけど…?」

から薬草を受け取った薬屋は、乾燥した草をしげしげと眺めると、薄く笑って彼女を見遣った。
その含み笑いを受け止めて、は答えた。

「もう一つ頼みごとがあるんです。それはその報酬に」
「やっぱりか。琥珀はちゃぁんと報酬がどういうものかを教育していたはずだものねぇ」

報酬を多く渡すなんて教えていないはずだよ。
薬屋はそう笑うと首を傾げ、頭半分小さなを覗き込み、尋ねた。

「さぁ、何が欲しい?」

骸骨のように痩せた白衣の男は、ぼんやり光る蛍光灯の光の受けて哂う。



トキとラオウの闘いは、ラオウの勝利で幕を閉じた。
最後の最後で涙を取り戻した覇王は、病魔に侵されて尚自分を思う弟の念に心打たれ、彼を労わって去っていった。
残されたトキの時間は短い。
奇跡の村に戻り、再び弱者を救う医者として暮らし始めたトキを支えていたのは、トキの最後の闘いを見届けた バットとリンの2人だった。

トキはあれから毎日救いを求めてきた人々を診続けていた。
休む事もせず、最後に自分がしたかったことをやり遂げようとしているようだ。
死に向けて弱っていく身体を省みない彼の貢献で、多くの人々が救われている。
それを喜びたい思いと、やはり身体を労わって欲しいという気持ちが交錯する中で、リンもバットもただトキを手伝う事しかできない。

静かで穏やかな日々が流れる中、外の水場で洗濯物をしていたリンは不意に溜息をついた。

「どうしたんだよ、リン」
「…さん、大丈夫かしら」

リンの言葉に、バットはシュウの村を出る数日前からどこかに消えてしまったを思い出した。
トキに聞いた話では大事な用があるということらしいが、行き先も何も告げずに行ってしまったので全く安否が不明なのだ。
もっとも、ラオウに爆竹は投げるわサウザーには面と向かって暴言を吐くわのがちょっとやそっとのことでどうこうなるとは思えない。
リンが思うよりずっとは逞しいとバットは思うのだ。

「あのサウザーにケンカ売った人だぜ?平気だよ」
「でも…」

リンの小さな肩に手を置いてにかっと笑顔を見せたバットにリンは僅かに微笑んだ。

「そう…そうよね」

バットの言葉に頷いて、リンは思い出す。
あの人は何があっても笑っていた。
だから、きっと今だって笑っているに違いないと。
涙を見せない頼りなさげな彼女は、きっとどうにかやっていけている。
あのタフさがある限り。

清廉な時間が流れる村を見つめていたものがいるなど、二人は知る由も無かった。






一方その頃、ケンシロウは朽ちた街で拳王軍の残党が悪行を尽くしている場面に遭遇していた。
人を砲丸のように投げる残酷な遊び。
許せるものではない。
悪党達の前に出て行ったケンシロウは、そこで新たな人物に遭遇した。
馬に跨って現れたのは、ラオウとは違う銀髪の男である。

「きさまにこの村は似合わぬ。この村はこのわたしが貰い受ける!」
「ぬっ…きさまはリュウガ!」

リュウガと呼ばれた男は、飛び掛って行った男の喉笛を一瞬にして抉り取る。
聞いたことのあるその拳に、ケンシロウは銀髪の拳法家を見た。
天狼星の星の宿命を背負うその男は、ケンシロウを見ると彼に尋ねた。

「北斗神拳伝承者ケンシロウだな!」
「そうだ」
「一度会いたいと思っていた…これだけの闘気を持つ男に出会ったのはお前が二人目だ」

ケンシロウに告げる男の目は、まるで何かを値踏みするように薄く光っている。
リュウガの眼光を受け止めてケンシロウが彼と対峙していると、後ろで悪党達が騒ぎ出した。

「に…逃げろぉ!!」
「急げ!リュウガは容赦しない男だ!!」

しかし我先にと逃げ出した連中だが、直後の放たれた槍の雨の前に足を止めた。
リュウガの本隊が村を包囲していたのである。
堪らず悪党の一人がケンシロウに助けを求めるが、ケンシロウは彼らに慈悲の心など持ち合わせていない。
あっさりと助けを拒まれた男は、リュウガの拳によって体中の肉をえぐられて事切れた。
その死に様を、どこか哀れむような気持ちで見つめるケンシロウに、リュウガは言った。

「この乱世には大木が必要なのだ。強大な力を持った支配と言う名の大木がな」
「…………」
「ケンシロウ、いずれ会う事になろう」

白馬を駆り、颯爽と去って行った男の後姿を、ケンシロウは静かに見送った。
この出会いがの意味を、彼はまだ知らない。