「…お……お久しぶりです」 リュウガと再び対面したが辛うじて発することができたのは、自身が思っていたよりも凡庸な言葉だった。 「だが…何故ここに…?」 が返答に詰まると、リュウガは2人の間に流れる空気に気まずそうにしている宿の主人に気づき、彼女に言った。 「…場所を移すか」 がぎこちなく促すと、リュウガは頷いての提案に従った。 「本当に久しいな。連れの男はどうした?」 ディ・ロンは死んだ。 「髪が少し伸びたな。食事は摂れているのか?」 世間話。 「久々に顔を合わせたというのに申し訳ないが、あまり長居は出来そうにないのだ。用があるなら手短に…」 リュウガの言葉を遮っては息を吸い込んだ。 「聞いてください」 真剣な目つきになったの様子に、リュウガも口を噤んだ。 「思い出したんです。全部、今までのこと」 リュウガの目に僅かに動揺の色が走ったのを、は見逃さなかった。 「記憶を失くすなんて失態、謝っても許してくれないかもしれないけど…でも、貴方に会えたら絶対に謝ろうと思ってました」 恋人が記憶喪失になって他の誰かと居るなんて、きっと自分だったら辛くて居てもたっても居られなくなる。 「………心配をおかけして、ごめんなさい!」 思い切り頭を下げる。 「え…?」 反射的に顔を上げると、銀髪の天狼は過去にに向けていたものとはまったく別の、何の感情も映さない瞳で彼女を見つめていた。 「今更記憶を取り戻したから謝罪をしに会いに来ただと?都合の良いことだ。どの面下げて出てきた」 至極もっともな意見だ。 「待っ、」 慌ててドアの前に立ちふさがったに、リュウガは冷ややかな視線を浴びせた。 「…そんな、なんで」 右手を掲げて天狼拳の構えをみせたリュウガに、は今度こそ硬直した。 「話はこれで終わりだ」 (泣くな、泣くな私、) (泣くな) 「…何のマネだ」 扉に向かったままの言葉を聞き取ろうとしたリュウガは、怪訝な顔で彼女を振り返る。 「嫌です。諦めません」 リュウガの前には、青褪めて固まっていたはいなかった。 「…話を聞いていなかったのか?邪魔をするならお前とて…」 自分より40センチは背の高い男を見上げてしっかりと視線を合わせたの言葉に、リュウガは驚愕した。 「離せ」 はマントを掴む手に力を込め、震えた声でリュウガに問いかけた。 「天狼の宿命は、命よりも大事なんですか…!?」 それは、彼の覚悟まで理解している人間の台詞だった。 「何故…!」 リュウガの疑問をぴしゃりと叩き落して、はリュウガの眼から視線を逸らさずに訴える。 「私、リュウガさんがいなくなっちゃうのだけは嫌です」 その瞳に宿る真っ直ぐな想いを否応なく受け止めざるを得ないリュウガは、密かに拳を握った。 「こんなこと言ったところで、リュウガさんがすぐに考えを曲げてくれるなんて思ってません。だけど、好きな人が死ぬかもしれないのに、何もしないでなんかいられない!」 は既に瞳に涙を溜めていた。 「お願いです。もう一度、考え直してください…!!」 悲しいほど純粋で、苦しいほど真っ直ぐなの想いに、リュウガは堅く眉を寄せ、そして最後の行動に出た。 「…わかった」 深い溜息の後、リュウガはを引き寄せて抱き締めた。 「……え、……?」 リュウガの拳が鳩尾を打ったのだと理解し、はリュウガを見上げた。 「人を疑わぬ性格は少し直した方がいい。…尤も、それがお前の長所でもあるが」 の身体を抱き上げてベッドに寝かせると、リュウガは気を失った彼女の頬に躊躇いがちに触れた。 が記憶を取り戻したといった瞬間、リュウガは嬉しいと思う気持ちよりも心苦しさのほうを感じていた。 (食い下がってくるとは思わなかった) 今となっては、記憶など取り戻してくれなくて良かった。 それでも、逢ってしまった。 がいっそ何も思い出せないままでいたなら、この最後の逢瀬でも、もっと穏やかな時間を過ごせたのかもしれない。 瑞々しい肌、しなやかな黒髪、白い咽。 残酷なほど、変わらないのに。 (…大人びた表情をするようになった…) 部屋を出る事はいつでもできた。 続くはずのないことだと知っていたくせに、 を傷つける日がいつかくるとわかっていたのに、 あれだけ愛して、自分を愛させておいて、最後には棄てた。 (本当に酷い男だ、俺は) 彼女の額にかかる髪を払い、リュウガはの額に今迄で一番優しいキスを落とした。
「ああ…久しぶりだな」
人間は思いもかけない瞬間に遭遇した時こそ、一番平凡な行動に出るのかもしれない。
彼女にリュウガもつられてか、同じ言葉を返していた。
「何故って…それは、その」
「あ…じゃあ、部屋に…どうぞ」
「…ああ」
階段を上がって、今しがた出てきたばかりの部屋を開ける。
二人部屋でよかった、とは思った。
一人部屋だと、距離が近くなってしまって緊張しただろうから。
パタン、とドアを閉め、置いてあった椅子を勧めるが、リュウガは立ったままでに尋ねた。
「それは…」
もう何ヶ月も前に。
それを言うべきかが迷っていると、リュウガはまた別の質問をした。
「え、と、今日はまだ…」
「もし、何か困っているならば相談に乗るが…と言っても、俺が協力できる事は少ないか」
これでは本当にただの知り合いとの会話をしているようだ。
誰にだって通用する話題、話し方。
胸の奥が押し潰されそうに悲しくなって、は手をぎゅっと強く握った。
違う。
こんなの、”らしく”ない。
「あの!」
もう他人じゃなくなったのだと言わなければいけない。
こんな虚しい会話なんて、したくない。
2人の間に流れる空気に緊張が走る。
アイスブルーの瞳に射抜かれ、は罪悪感で胸をいっぱいにして口を開いた。
「!……」
しかし今はとにかく謝りたくて、はあえてリュウガの動揺を見なかった振りをして続けた。
それなのに、リュウガはそんな素振りを見せなかった。
何故あの時素性を明かしてくれなかったのか、はわからない。
だがリュウガには酷く心配をかけただろうに、他人のような顔をした自分が許せなかった。
こんな事くらいじゃ許してくれないだろうと判っていてもだ。
けれど、これで少しでもこの虚しい空気がなくなれば、もう一度彼が自分の名前を呼んでくれれば、
救われると思ったのに。
「――――――それで?」
耳に飛び込んできた言葉に、の思考は一瞬凍りついた。
「半年以上も何の音沙汰もなかった女を、俺が待っていると思ったのか?」
の心臓がひやりと悲鳴を上げる。
「…そ…それは…」
「自分が拳王軍に何をしたのかわかって言っているのか?調子が良いにも程があるな」
けれど浴びせられた言葉の棘をまともに受けて、は何も言えなかった。
が黙り込んで俯くと、リュウガは長いマントを翻して部屋のドアに向かった。
「邪魔だ。退け」
心が凍りつきそうなほど冷たく鋭い眼だった。
「拳王様から貴様の抹殺命令が出ている。邪魔立てをするのならば容赦はせぬ」
「……!」
わかってはいた。
リュウガは拳王を、ラオウを尊敬している。
主にどこまでも忠実な男だ。
だから主に牙を向けた人間は、仮令恋人であってもただで許される事はないと。
それでも、どこかで期待していた。
“待っていた”と、言ってくれる事を。
青褪めて動けなくなったを、リュウガはものを見るように一瞥し、の隣をすり抜けた。
擦れ違う瞬間、かつて包まれた微かな香水の匂いが漂う。
あの時まで、この匂いに包まれる事が幸せだった。
だが今は、息が詰まるほど苦しい。
唇を噛んで、は絶望しそうな自分を堪えた。
リュウガがの後ろでドアに近づいてゆく。
一歩、二歩。
「これに懲りたら、もう俺には関わるな」
三歩。
(ここで諦めちゃ駄目、だって)
かちゃ、とドアノブが回った音がした。
「…死を待つまでの間、有意義に使え」
ギィ、とドアが錆びた音を立てて開いて、
(諦めたらリュウガさんが死んじゃうんだから!!)
「…?」
部屋を出ようとしたリュウガは、首元にかかった小さな力に足を止める。
がリュウガののマントを俯いたまましっかりと掴んでいた。
「…です、」
その時、俯いていたが顔を上げた。
そこに居たのは、自分の意思で何かを変えようとするただの女。
「だったらこの場で殺してください」
「…!」
この眼は本気だ。
「イヤです」
「本当に殺すぞ!」
「私だって、リュウガさんが一度決めた事は絶対に貫く人だって事はわかってます!こんな風になる前は、何があっても貴方についていこうって思ってた。拳王軍に居た頃はこんな駄々をこねようなんて思わなかった!でも、今は違う!!」
「そんなこと、どうだっていい」
もう彼女とは話す時間はない。
これ以上近くにいたら――
泣きそうな自分を堪えて、はリュウガに懇願する。
(やめろ)
(俺はもう―――)
「!…じゃあ、」
「………ああ。お前の言うとおりにしよう」
「リュウガさん!」
長く触れていなかったの身体は、以前と変わらず細く小さくて温かかった。
「良かっ…」
説得に応じてくれたのだと身を預けたは、直後に腹に衝撃を感じ丸い眼を大きく開く。
否、見上げようとして僅かに仰け反り――意識を飛ばした。
力が抜けて床に崩れかけたの身体を、リュウガは腕で支え、悲痛な表情で呟いた。
しっとりとした、少し冷たい感触が指に触れる。
柳のように広がった髪は以前と同じ、美しい深黒だ。
彼女の謝罪など、リュウガは聞いていなかった。
ただ、どうすれば彼女を巻き込まずに宿命を果たせるかを考えるのに精一杯だった。
結果、冷たくあしらって二度と自分に近づけないようにすれば、は自分の宿命には巻き込まれないだろうと思いついたのに。
このタイミングで今更が何を思い出しても、結局自分の死で辛い思いをさせてしまうのだから。
偶然の残酷さに、リュウガは自嘲気味に哂った。
そういえば、階段を降りてきた時の彼女は食事ができるところを探していた。
腹を空かせていたのなら、食事にでも連れて行けばよかった。
はおいしそうに食事をするから。
文字通り自分にとっては最後の晩餐となるが、最後の別れとなるのなら、せめて笑顔が見たかった。
傷ついた顔など、させたくなかった。
倒れぬように抱きとめた首から香る甘い匂いは、かつて腕の中にいた頃と変わらない。
けれど一瞬でも長く彼女の顔を眼に焼き付けておきたくて、リュウガは短い逢瀬を惜しむようにを見つめた。
懐に隠していたと対のペンダントを彼女の手にそっと握らせると、握った指の熱がじんわりと伝わる。
触れた指は温かく柔らかい。
の体温や感触を全てを覚えていられるように、リュウガはその動作の一つ一つを丁寧に終わらせると、最後に彼女の頬にもう一度触れた。
初めてが任務を成功させ重症を負って帰ってきたときも、リュウガは同じように彼女の頬に触れたのだった。
それからを大切に想う気持ちが膨らんで、やっと想いが通じ合ったときはただ幸福で。
「…………許せ」
愛しい恋人を残し、天狼は静かに部屋を出た。
想いは全て、彼女に残して。