自分よりもずっと弱くてずっと小さな彼女が、あんな目にあったというのに。
「……っ」
そこまで考えて、考えるのはよそうとレイナはの部屋を出た。
これは二人の問題だ。
割り込んで良いことじゃない、そう言い聞かせて、レイナはの血の気の失せた白い頬を思い出して胸が痛くなった。
*
が奪ってきた文書で、豪鉄の檻は見事開くことができた。
その報告を聞いて、ソウガは隣に控えるリュウガを見やった。
彼は一度もの見舞いに行っていない。
それどころか、いなくてもまったく気にしていないかのように振舞っている。
何を考えているのかわからない男の横顔をちらりと見て、ソウガはが倒れたときのことを思い出した。
彼女は、胃の中に文書を隠していた。
それが捕まった時に殺されても簡単に文書を渡さないようにするための保険だと気づいて、ソウガは改めてこの娘の精神力に舌を巻いた。
女でありながらこの覚悟は賞賛に値するだろう。
しかし、リュウガはそんなを見ても眉一つ動かさずに、淡々と指示をして彼女を軍医の元に連れて行かせた。
あれほど傷ついた腹心の部下を、自分ならば自ら抱えて運んでいくだろうと、ソウガはリュウガの彼女に対する扱いに憤った。
けれど気を失った彼女の前で喚き散らすわけにも行かず、ソウガは兵がを連れて行くのを黙って見送ったのだった。
それなのに、が一番言葉を欲している男はもう3日も経つというのに一度も彼女を見舞っていないと言う。
ラオウですら、彼女の働きを評価して僅かながらも彼女を気遣うような発言をしていたのに、だ。
レイナもそれに気づいているようだが、如何せん当人たちの問題に口を挟むこともできず、口を噤むしかなかった。
ラオウもまた気づいているようだが、これは当人同士の問題と見なしているのか何も言わない。
いや、言えないのである。
剛のものである彼は、こういう問題は上手くない。
しかし、それを放っておけるほどソウガは他人にはなりきれない。
血の気が失せた顔で、それでも弱弱しくリュウガの言葉を求めたの顔を思い出すと、このまま傍観している気分にはなれなかった。
会議が終わって廊下を歩くリュウガに追いついて、ソウガは声をかけた。
「リュウガ」
「…なんだ」
呼び止められたリュウガは、ソウガを一瞥して短く答えた。
「何故見舞いに行ってやらんのだ」
「誰のだ?」
「惚けるな!のことだ。ただの娘でありながら、身体中に怪我を負ってまで任務を成功させたのだぞ!」
「それがどうした。兵ならば当然のことだ」
「女の身を男の兵と同じに考えるな、レイナとは違うのだ!!それにお前も見ただろう、あの傷を!」
その言葉に、リュウガが一瞬表情を硬くした。
どうやら完全に無視しているわけではないらしい反応に、ソウガは更に畳み掛けた。
「…足と腕の傷は一生傷になると軍医が言っていた。嫁入り前の娘にあれだけの傷をつけさせて、挙句見舞うこともしないとはどういう了見だ…!」
ソウガが食って掛かると、リュウガは秀麗な眉を歪ませて、小さく呟いた。
「…オレが行ってどうする」
「何!?」
「オレが行ってどうしろと言うのだ?お前はよくやった、とでも言わせる気か。誰があれを使うと言い出したと思っている?…俺に何を言う資格があるというのだ」
「…!」
苦々しく言葉を吐き出したリュウガに、ソウガははっとした。
あの任務に彼女を使うことを提案したのは他でもないリュウガだった。
言い出した張本人が、予想以上に傷ついて帰ってきた彼女に、今更合わせる顔が無いとでも思っているのだろうか。
「まさか……悔いているのか…?」
「……仕事がある。…失礼する」
ソウガの横をすり抜けていこうとしたリュウガに、ソウガは振り返らずに言った。
「あの子が一番言葉を欲っしているのが誰かわかるか」
「…………さあな」
その問いには答えずに、リュウガはその場を去っていった。
天狼の後姿はどこか辛そうで、ソウガは長いため息をついた。
「…頑固なやつだ」
*
目の前でぐったりと倒れこんだ娘は、腕と足から血を流し、吐瀉物の中から命令されたとおりのものを取り出して、それから一度も目を覚ましていない。
もともと白い肌が青白くなっていくのを見ながら、リュウガはに駆け寄りたい衝動をぐっと堪えたのだ。
取り乱してはならない。
優先すべきは任務であり、拳王の覇道だ。
倒れる瞬間、彼女は弱弱しい声で、確かに自分を呼んだのに。
をあんな目にあわせたのは他でもない、自分だ。
彼女の身を慮る資格など無い。
自ら危険に飛び込んだのはでも、そうさせたのはリュウガ自身で、彼女を傷だらけにしたのも元はといえばリュウガがを使うと言い出したからだ。
(泣けばよかったのだ)
(泣いて、出来ませんと縋り付いて来れば、)
「…」
夜半、城の者が寝静まったころ、リュウガは静かにの部屋に向かった。
目を覚ましていないならそれでいい。
面と向かってのあの真っ直ぐな目を見る気にはなれなかった。
ゆっくりとの部屋のドアを開けて寝室に入ると、熱にうなされて苦しそうに喘ぐ娘の姿があった。
「……っ…!」
拳を握って、静かにベッドに近寄ると、リュウガはの額のタオルをそっと外し、サイドテーブルの洗面器で洗ってもう一度冷やした。
冷たくなったタオルで額と首を拭いてやると、はゆっくりと呼吸を落ち着けた。
少し楽になったらしい。
「……」
馬鹿なやつだ、とリュウガは思う。
確かにとて拳王軍の兵の一人だ。
しかし無理難題を吹っかければ、怖気づいて逃げ出すと思っていた。
下手をすれば死ぬか辱められるような仕事を押し付ければ、泣き出すか落ち込んで軍から出て行くはずだとリュウガは予想していた。
そうすれば、もうこの白い手は血に染まらずに済むと。
もうこの純粋な目を見ないで済むと。
そして、もしが怖気づいて逃げ出す場合の手筈も全て整っていたのだ。
それなのに、は任務を受けて成功させた。
こんなになってまで褒めて欲しかったのだろうか。
こんなに傷だらけになってまで、彼女は。
「……本当に…馬鹿なやつだ…」
言葉とは裏腹に、彼女を見る瞳は大切なものに向けるそれ。
起こさないように囁いて、熱を持った頬を撫でてやると、はリュウガの冷たい手に顔を摺り寄せた。
子犬のような仕草に、リュウガは複雑な笑みを零す。
むきになる姿も子犬のようだが、眠っているときまでそうだとは、と幼さを残す寝顔を見つめて、リュウガはの顔にかかった髪を丁寧に払いのけてやった。
と、の唇が声を漏らした。
「…じわ、る…」
「…?」
耳を寄せてよく聞くと、はどうやら寝言を言っているらしい。
「…リュ…ガさん…いじわるぅ……」
「…!」
「くりーむぱん…かえしてぇ…」
「……………」
すわ夢の中でもを苦しめているのかと思いきや、どうやら自分はクリームパンを奪っただけのようだ。
ショボい苛め方である。
というか自分はそんな人間だと思われていたのだろうかと思うと、少しショックである。
怪我をしようが熱を出そうが頭の中身は変わらんか、と半ば呆れて、リュウガは小さく笑った。
「…起きたら好きなだけ食わせてやる。…お前はよくやった。今は眠れ…」
そっと慈しむように指で何度か頬を撫でると、は擽ったそうにしながらも安心したように穏やかな寝息を立て始めた。
その額に触れるだけのキスを落として、リュウガはの寝室を出ると頬を撫でた手をじっと見つめて目を伏せた。
触れた頬の柔らかさだけが、いつまでも手のひらに残っていた。