崩れかけたジェット機の残骸の中で、汚れ一つ無いセーラー服の娘が唇を半月方に吊り上げて笑った。

「―――羊の最後の壁が迫っている」
「…本当ですかい」

改変――1000年に一度見られるか見られないかの、時空を超えて世界が変わる現象だ。
ここまで来た羊など、片手で数えられる程度しかいなかった。
己の意思で世界を変える羊。
あの小娘は、主に余計な希望を抱かせた小娘は、それを今行おうとしているのだ。

「始まるわ」

闇色の髪を靡かせて、娘は唇を歪めて哂う。
やっとこの世界の新しい未来が見られる。


彷徨い嘆いた羊は、高らかに声を上げ、運命の先を切り拓こうとしている。


壊れた世界など今の彼女には無に等しい。


空が焼けたように赤く染まる。
死に捕らえられた一つの命を、羊が意思を以って掴みかけている。


それは誓い。

それは祈り。


一つの世界の一つの運命が、今、風向きを変えてゆく。





リュウガはトキの村から程遠くない岩場で、馬から下りて村の様子を伺っていた。
を宿に置いてきたのは正解だった。

これから村を一つ、潰す。
ケンシロウを追い込むためだけに、だ。
無抵抗の人々の怯えた顔が目に浮かぶ。
兵士でもない老人や女子供まで、手にかけることになるだろう。
記憶を取り戻したは、一年は会っていないリュウガに、未だ愛しているのだと告げた。
しかしこれから自分がすることを目にしたら、きっと彼女は酷く心を痛めるだろう。

リュウガは岩場の陰に座ると服を寛げて腹部を露わにさせ、懐から包帯を取り出した。
次に腰に装着していた短剣を抜くと、研ぎ澄まされた刀身が鈍く光る。

陰腹。

自らの腹を切った状態で戦いに臨むのだ。
リュウガ自身の覚悟と贖罪、そして祈りを込めた最後の儀式である。
鈍色の刃を腹に当て、ぐ、と力を込めて一文字に腹を掻き切った。
薄い氷が触れたような感触と、その後に込上げる痛みの熱に、リュウガは歯を食いしばり耐えた。
頬を脂汗が伝い落ちる。
深く切り過ぎないように力を調節して切ったが、痛いことに変わりはない。
その上、以前砂漠の町でやられた古傷を傷つけたからか、思いのほか出血が激しい。
片手で傷口を押さえ、出血を抑えるためきつく包帯を巻くと、リュウガは腹に力を込めた。
傷口を筋肉の収縮で出来る限り開かないようにしようと考えたのだ。

「ぐ……!」

包帯に滲んだ赤い血液を見つめながら、リュウガは不意に、宿に残してきた恋人が自分に言ったことを思い出した。
あれはまだ、恋人になって間もない頃だっただろうか。



『リュウガさんって、いつも白い服ばっかりですよね。白、好きなんですか?』
『たまたま白が多いだけだ。別に好んでいるわけではない』
『ふうん…じゃぁ、今度討伐に行くときは、茶色とか黒の服で行きません?』
『何故だ?』
『だって、白い服に血の染みがついてると嫌なんですもん』
『は?』
『リュウガさんが返り血浴びてるの見ると…その血の主にくっつかれてるみたいでヤなんだもん…』
『…それは男の俺に女のお前が言う言葉ではないな』
『そんなの知りませんよぅ!でもヤなんですっ!わ、私だってリュウガさんに…く、くっつきたいのに…』
『ならばそう距離を取らずに、こちらに寄ればよかろう』
『それは恥ずかしいから遠慮します…』



恋人の文句に心が温かくなったあの日が、遠い。


(あの日お前を一人にしなければ)

(お前は今も俺と共にいたのか?)


腹の傷は内臓を少し傷つけてしまったらしい。
喉をせり上がってきた熱いものにリュウガは咽こんだ。

「がは…っ…」

地面に赤い液体がぽたぽたと落ち、丸い染みを作った。
血だ。
そこまで酷く切り込んでいなかったはずだが、胃液が混ざって胸焼けをしたように感じる。
けれどこの痛みも苦しみも、これから自分の手で潰す村のものたちのそれに比べれば軽いものだ。
そしてきっと、これから泣くであろう彼女の涙に比べれば―――いくら血を流しても足りないほど。

(…人に見せられる格好ではないな…)

「情けないことだ…」

顎を伝った血を拭い、リュウガは自嘲した。
宿命というものを意識しだしたのはいつからだっただろうか。
十五の頃には既に自分の生れ落ちた星に課された使命への自覚があった。
二十歳の頃にはそれを果たせる人間にならなければならないと思っていた。
世界が荒れ果て、希望が厚い雲に覆われて闇に隠れてしまってからは、今こそ使命を果たすときだと思った。
信じていた。
この使命は己の揺るぎない想いと共にあると思っていた。

それを躊躇わせるのは、未だ心に残るたった一人の存在だ。

彼女はちゃんと生き延びてくれるだろうか。
幸せになってくれるだろうか。
これから己がすることは、拳王軍の野蛮な将軍の悪評として世に知れるだろう。
それを聞いたら、彼女はどんな顔をするのだろうか。

考えても無意味だ。

自分は縋りつく彼女の手を振り払ったのだから。


(…時間か)


もうすぐ信頼のおける部下達が彼女を迎えに村に着くはずだ。
どうかそれまで眠っていて欲しいとリュウガは強く願った。


彼は知っていた。

愛しい女の心の強さを。

そして忘れていた。

自分の恋人が、常に予想外の行動を取ることを。