正に今、闘わんと対峙していた最中に飛び込んできた声に、両者が振り向いた。

「な…!?」
…追いついたか」
「待って…げほっ、待って、ください…」

ようやく追いついてきたに、ケンシロウは小さく息をついた。
リュウガはといえば、あれだけ突き放したのに諦めていないの様子に声も出ないらしい。
は入り口に凭れて、ぜぃぜぃと荒い息を吐いて、全身傷だらけ、しなやかな髪も乱れ放題。
いつもの彼女からは想像もつかない姿だが、まだ立っていた。

「馬鹿な…追いかけてきたのか…!」

リュウガが呆然としながら呟く。
それを合図とするかのように、はふらついた足でよろめきながら歩き出した。
そしてリュウガの前に立つと、力なく腕を上げ、リュウガの胸に両の拳を弱弱しく打ちつけた。
驚きに動けないでいるリュウガは、顔を上げたを見てはっと息を呑む。

「馬鹿はどっち…!?」

今にも溢れそうな涙を堪え、はリュウガを睨んでいた。

「何、一人で結論出してんですか……」
「…っ、」
「どうして全部一人で背負おうとするんですか!!!!!」

は自分よりも頭2つほども身長に差がある男の胸倉を掴み無理矢理引き寄せて、叫ぶ。
未だ嘗て見た事のないの激昂した様子を、ケンシロウは静かに見つめていた。

だがリュウガもいつまでも彼女の勢いに呑まれている男ではない。
リュウガは自分の襟首を掴んでいるの手を振り解くと、に負けない声で叫んだ。

「っ、乱世のためだ!世に平穏を齎すため…邪魔をするな!」

その言葉を耳にした瞬間、の声のトーンが落ちた。

「………………………………………………邪魔?」

瞬間。


パァァァァァァァァン!





城中に響き渡りそうな音を立て、の平手がリュウガの頬を打った。

「っ…!?」
「だったら…中途半端に生かしてなんかおかないでッッ!!」

初めて聞く、竦みあがりそうになるほどのの怒声に、ケンシロウは内心驚いた。
これがつい先刻まで泣いて自分に助けを求めた娘だろうか。
ケンシロウが唖然としている間にも、はリュウガに矢のように言葉を投げつける。

「貴方の信念が世のために何かを犠牲にする事なら、私もその犠牲に入っていなきゃいけないでしょう!?私だけ生かして、他の誰かは犠牲にして、それで私が感謝すると思ってるんですか!?身勝手だってどうしてわからないんですか!!」

呆然とするリュウガの胸倉を腕を伸ばして掴み引き寄せ、はこれまでで最も激しい怒りをぶつける。

「何、甘やかしてんですか。何で殺さなかったんですか、何で…!」


溢れそうな涙を堪えた瞳が、迷いを見せた男の瞳と絡む。


「優しすぎるのはそっちでしょう!!」


何もかもを吐き出したは、それきり黙りこんでリュウガの胸をもう一度弱く打ち、俯いて嗚咽を漏らした。
同時に、力の抜けた身体が傾ぐ。
今にも倒れそうな細い肩を抱いたのは、リュウガだった。

擦り傷だらけの腕に、今にも崩れてしまいそうな細い足。
が気力で立っているのは明白だった。
ぼろぼろになった彼女を見つめ、リュウガは思う。

己の宿命は、何よりも守りたいものを傷つける。
何よりも見たくない彼女の涙を、こうも残酷に目の前に突きつける。
ただ守りたいだけなのに、笑って欲しいのに、叶えることができない。

それなのに、自分はまだ己の道を曲げる事ができないでいる。

「…俺には…全うせねばならぬ宿命が…!」

叫ぶように否定して、リュウガはを突き飛ばそうと肩に力を込めた。
しかし彼が行動するより先に、はリュウガの背に両腕を回した。

「…!!放せ!」
「いやです!」
「…っ、この…!」

しがみつくを引き離そうとリュウガは彼女の肩に手をかけるが、うまく力が入らない。
動揺している己を自覚しながら、リュウガは無理矢理力を込める。

「く…!」

全てが正論で、全ては虚飾だ。
間違っているとも思わない。
何を優先すべきかを考えた時、未来の平和のためならば誰かの命も自分ですらも犠牲にできた。
今より未来の為、必要とあらば女子供ですら殺した。
だからこそ、この手は血に塗れ、殺戮の中で野獣のように吼えて屍を踏み越えてきた。
ここで今までの全てを否定したら、何が残る。

何も、残らない。


「放さぬか!」
「嫌です!」
「ただではおかぬぞッ!」
「だったら殺していけばいいッッ!!」


迷ってはいられない。
宿命を果たすには彼女すら犠牲にしなければならない。
ここで選ばなければならないのだ。
己の宿命と、彼女の命を。

どちらを捨てて、どちらを拾うのか。
を選ぶならば、この手の力を抜いて彼女を抱きしめればいい。
けれど、己の宿命を選ぶのならば、リュウガは。


己の手で彼女を―――

「…っ、ぐ…!!」

搾り出すような苦しげな男の声に、はそっとリュウガの背を撫でた。
血がこびり付いていて、土色になった血の粉が指に絡む感触がする。

(血が、こんなに)

(もっと早くに止めなきゃいけなかったのに)

(ごめんなさい…!)

彼を傷つけているのは自分だ。
そして、彼自身でもある。

一人で背負うには重過ぎる宿命。
一人で果たすには辛すぎる業。
使命感の重さや、世を憂える想い、それら全てが彼を雁字搦めにしている。
生き方が不器用だからかもしれない。
はそれを知っている。
かつての自分もそうだったからだ。

「…リュウガさん」

出来るだけ彼を傷つけないようにと、は静かに男の名を紡いだ。
抱きつかれたままのリュウガが幽かに震えたので、はもう一度あやすように男の背を撫でてぽつりぽつりと話しはじめた。

「私は、貴方の信念が間違っているなんて思っていません」

「何かを得るのに、何も失わないでいられるわけがないってことも、わかってる」

「でも、一人で全部背負われたら困るんです。もう決めちゃったんです、貴方についていくって」

「貴方が鬼に成るのなら、私は貴方の牙になる。獣に成ると言うのなら、私は貴方の爪になります」


一蓮托生、いつかは滅ぶこの身であるなら。


「一人でなんて背負わせません。ここで貴方を死なせはしない。それでも貴方が地獄に飛び込むなら―















――私も一緒に、

地獄に堕ちます。









「……!!」


命を賭した女の覚悟が、リュウガの胸の奥を穿った。
このまま自分が死ねば、彼女は自分の胸をナイフで突いてでも最後まで道を共にするつもりでいる。
自分が死を覚悟をしたのと同じように、もまた死を覚悟してリュウガの命を繋ぎ止めようと必死なのだ。
誰よりも生きて欲しい女が、誰よりも愛しい人が。

想いが、覚悟が、心が、何もかもが喩えようが無いほどに眩しく、愛しい。
リュウガの腕はいつの間にかを抱き締めていた。

「何故…こんな男を愛した…!」

何故。
そんなものを必要としないのが人を愛するということではないのか。
リュウガもそれを知っているはずだ。
は答える代わりに、自分を抱きしめる男の頭を壊れ物を扱うように撫でた。

「何故憎まぬ!…あれほど愛したというのに、俺は、お前を…!」
「でも」

リュウガの悲痛な叫びを、はやんわりと遮った。
言わなくていいのだ。
自分で自分の胸を切り裂くだけの言葉など。
だから、代わりに別の言葉を被せた。

「今は、抱きしめてくれてるでしょう?」
「………!」

顔を上げたリュウガの目に映ったのは、擦り傷だらけのの笑顔。
何よりも守ろうとして、今まで見ることが出来なかったもの。


「…本当に……」

(馬鹿だ、お前は)

リュウガは、最後まで言葉を発することなく意識を手放した。
意識を失う瞬間目に映ったの笑顔が崩れたのを、リュウガはうっすらと覚えていた。