私が随分小さい頃に、お父さんが居なくなった。 おかげでお母さんはそれから、私を教育することに全てを賭けるようになった。 それが居なくなったお父さんの代わりに出来ることだと信じて。 『よーろっぱ?』 『そう。日本じゃないところよ。ちゃんピアノ好きよね』 『うん』 『それじゃ、ヨーロッパのパリでピアノの練習をしてくるのはどう?』 『いーよぉ』 だから断っておくけれど、私は被害者なんかじゃない。 わけのわからぬままにピアノ教室で扱かれて、怒られるのが怖くて、でもピアノは楽しくて、いつの間にか留学審査を通過していた私は日本の小学校に入る前にパリの音楽学校に入学する事になった。 嫌だったわけじゃない。 学力試験も余裕でパスしてしまった私は、日々フランス語を浴びてそれらを吸収しながら、その後5年間に及ぶフランスでの生活を余儀なくされた。 『ちゃんのために、お母さん日本で頑張って働くわ。だから貴方も頑張りなさいね』 ホームステイ先に向かう車の中で聞いた言葉だった。 おちびちゃん 婦人は名をアンジェラといい、わたしのピアノの教師になる人で優しく丁寧に教えてくれると紹介された。 『おちびちゃん。ピアノはね、好きなときに、好きなだけ弾けばいいの』 『今の貴方に必要なのはピアノじゃない、ママのキスとパンケーキよ。お家におかえりなさい、ma puce』 悔しくて悲しくて、私はアンジェラに取り縋って泣いた。 思えば、誰かに抱き締められたのはお父さんが失踪した日にお母さんに抱き締められて以来だったかもしれない。 『100点よね?まぁ、やっぱりそうだった!』 留学は成功だった。 帰国した私を、お母さんはやっと笑顔で迎えてくれた。 『なあに?』 『お母さんは、私にどんな大人になって欲しいですか?』 『……』 お母さんが準備していた名門の高校の編入試験を満点でパスした私は、それからしばらくの間、普通の学生生活というものを体験できるようになった。 わたしの声は、お母さんにはとどかない。
――ねぇ、お母さん。昔の夢を見たんです
死んだんじゃない。
本当に居なくなってしまったのだ。
私の5歳の誕生日にお父さんはバースデイケーキを買いに家を出て、それきり帰ってこなかった。
時が経つに連れてお母さんが段々以前の温かいお母さんじゃなくなっていくのを止める事もできないまま、私は幼稚園の年長の頃に機会があって受けたテストで高い知能指数を叩き出した。
更に、遊びで先生の真似を弾いたピアノで、興奮した保母に勝手にピアノの才能まで見出されてしまった。
『ちゃんは天才です!良い教育を受ければ、きっと学者にでもピアニストにでもなれますよ!』
無責任な大人の言葉をこの時の私は酷く嫌悪した。
『ちゃん、ヨーロッパに興味ある?』
お母さんに言われるままに私は頷いた。
ヨーロッパという響きが珍しかったからだ。
それになんだか面白そうだった。
自分でピアノの練習をしにパリに行くことを選んだ。
予想していなかったのは、それが留学という形だったことだ。
入学審査を通過した時のお母さんの喜びようは今でも忘れたことは無い。
お母さんが喜んでくれるなら頑張ろうと思えたから。
お父さんが居ない分まで、私はお母さんを元気にしてあげなくちゃいけないと思ったから。
寂しいなんて言えなかった。
お母さんはフランスには来なかった。
お母さんに手を繋がれた私を迎えてくれたのは優しそうな老夫婦だった。
“Ma Puce. ”
ロマンズグレーの髪をした穏やかそうな婦人が、遠ざかるお母さんを見つめていた私をそう呼んだ。
けれど、自分のためではない事をずっと続けるというのは、当時6歳だった私には途方もなく重かった。
いつからかピアノが弾けなくなった。
嫌いになったわけでもないのに、ピアノに触ると弾く気がなくなってしまう。
電話の向こうで、弾けないと漏らした私をお母さんは酷く怒鳴りつけた。
お母さんを怒らせたことより何より、弱い自分が情けなくて悲しくて、けれどどうしても私はピアノが弾けなかった。
歯を食いしばり唇を噛み締めて泣くのを堪える私に、アンジェラだけが言ってくれた。
泣きじゃくる私をアンジェラは嫌な顔一つせず抱き締めてずっと頭を撫でてくれていた。
お母さんはその日から、私を抱き締める事はなくなっていた。
日本に帰った私は、キスもパンケーキも受け取れなかった。
お母さんは私の顔を見るなり拳を振り上げ、我に返って涙を流し、ごめんねちゃん、お母さんも辛かったの、叩いたりしないから、と言った。
それから1年間、私はピアノから解放された。
しかしかわりに塾へ行かされた。
ピアノが駄目なら勉学を、と思ったのだろう。
お母さんは私が何故ピアノを弾けなくなったのかなど興味がなかったのだ。
初めからわかるつもりもなかったのかもしれない。
『ちゃん、今度のテストどうだった?』
塾の勉強には面白みなんてなかったけれど、お母さんが喜ぶならと必死で勉強した私は、いつしか高校3年生と同じくらいの学力を身につけていた。
それをお母さんが見逃すはずもなく、塾の面談で明らかになった私の学力を聞いたお母さんは、翌日米大留学のパンプレットを片手に私に言った。
『ねぇちゃん。アメリカの大学でお勉強してみない?』
まただ。
そう思ったけれど、私はやっぱり頷いた。
お母さんを悲しませたくなかった。
私がお父さんの代わりにならなきゃいけない。
ずっとずっと、そう信じていたから。
大学で学ぶために必要な試験もどうにかパスし、アメリカでも有数の名門校・マサチューセッツの門をくぐれる事になったのである。
勿論お母さんも色々苦労したという話だが、留学するのは私だ。
どう見ても子供だった私を迎えたのは、大人のプライドから来る妬みや嫉み。
けれど幼い頃のように泣いて帰るのだけは嫌だった。
私は5年かけて大学で学び、17才の初夏、晴れてマサチューセッツを卒業した。
そして一言目にこう口にした。
『日本の高校でも上手くやりなさい』
お母さんがどこを見ているのか、もう私にはわからなかった。
これ以上どうすれば、お母さんはかつての優しくて温かいお母さんに戻るのだろう。
『ねえ、お母さん』
空港から家に戻るまでの車の中、私の問いかけにお母さんは答えなかった。
きっと答えられなかったのだろう。
彼女はもうずっと前から、“娘”も“自分”も見失っていたのだから。
勿論勉強もしていたが、大学から高校に行くのだから正直、楽だった。
先生は成績さえ良ければ何をしてもほんのちょっとの罰やお説教で許してくれた。
だから遅刻だって平気でしたし、トイレ掃除を食らっても友達とぶつくさ言いながら楽しくやっていた。
お母さんとの擦れ違いさえなければ、もしかしたら私、一度帰ったあの時にこの世界に戻ろうなんて思わなかったかもしれない。
リュウガさんのことは好きだけど、自分の世界を彼以上にもっと愛せていたかもしれない。
でも、そうはならなかった。
元の世界に戻った私の前に突きつけられた、米大学院の話。
きっとお母さんは、私がこの話を飲んで成功したって、きっと昔のように笑ってはくれない。
わかってしまったんだ。
――まだお父さんが居た頃、家族3人で遊園地に行った時の夢で
――わたしはバニラのソフトクリームを落として泣いてしまって、お父さんがそれをおろおろしながら見て、
――そしたらお母さんが、わたしの前に座ってね、こう言うんです
――ちゃん、遊園地で泣くと幸せの魔法が解けちゃうわ、って。
――わたしは魔法が解けないように慌てて泣き止んで、そこにお父さんがソフトクリームを持ってきて
――お姫様、イチゴのソフトクリームをお持ちしました。って言って渡してくれたこと、覚えてますか?
――ねぇ、お母さん。
――もしかして、あの時私が泣いたから、幸せになれる魔法が解けてしまったんでしょうか。
――お父さんが居なくなったのも、お母さんが私をいつからか見なくなったのも、
――私があの日、遊園地で泣いてしまったからですか?
リュウガさんが死んでしまうとわかってしまって、迷いは消えた。
お母さんの満足するようにとに生きたところで、あの人が満足する事は無い。
だったら、せめて好きになった人の隣に居たい。
待ち受けるのが地獄でも良かった。
リュウガさんの信念を曲げてしまうから、怒った彼に殺されるかもしれない。
それでも、彼のためなら喜んで死ねると思った。
声も手も届かない、私が何をしても興味を持たないあの人のためだけに生きるより、ずっと。
けれど、こんな動機でお母さんを捨てた私をリュウガさんは受け入れてくれないかもしれない。
妹さんの話を懐かしそうに聞かせてくれる彼は、家族を大切にする人だということがすぐにわかった。
だから。
どんなに貴方を愛していても、こんな親不孝者の私が、本当に傍に居てもいいのかなって、思ってた。