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「…私は親不孝者です。いつか心を開いてくれるかもしれない母親を置いて、一時の感情で一生を決める選択をしました。戻れる保証なんて無いのに」 俄かには信じがたい話を聞かされ、リュウガは暫く無言でいた。 ここではない別の世界から来たという桐。 何も無い場所から突然リュウガの部屋に突っ込んできた彼女。 「やっぱり、気味…悪いですよね…?」 椅子に座ったままの桐は両手を膝の上で握りおずおずと声をかけてきた。 この話を打ち明けるまで、桐は何度も悩んだのだろう。 「大丈夫だ。疑いなどせぬ」 リュウガの問いに、桐は小さく頷く。 「…俺はお前がどこの誰であろうと構わぬ」 俯き加減の桐の頭をリュウガが撫でてやると、桐はおずおずと彼の背に腕を回した。 「……キリ。」 嗚咽が収まってきた頃、リュウガは優しく彼女の名を呼んだ。 「愛している。世界中の何よりも、お前だけを」 囁かれた桐は、泣き笑いながらじっとリュウガの声に耳を傾ける。 「……俺と共に生きてくれるな?」 「よろしいんで?お嬢」 女は黒髪を風に流したまま男に返した。 「羊…じゃねぇや、九条桐ですよ。風渡に成れるんじゃないんですかい?」 視線の先には睦まじく身を寄せ合う恋人達。 「私たちが羊を見ていなければならなかったのは、羊の存在が不安定だったからよ。けれど今、彼女の魂はこの世界に溶け込んだ。二度と揺らぎはしない」 男の言葉を遮って、女は言った。 「今のあの子には、似合わない」 呟くと女は丸い手鏡を手にした。 羊の行く末を見届けた“誰も知らない誰か”。 夢の中の少女は、桐に真っ白な便箋と封筒を差し出す。
「キリ…」
「ずっと黙っててごめんなさい…」
だがその沈黙の理由は、彼女の話が信じられないものだからではない。
思い起こせば思い当たる節が多々あった。
初めて出逢った時など思い当たる事の代表ではないか。
服装も持ち物も、リュウガが見かけなくなって久しいものばかりだった。
桐の鞄に入れてあったものは本や筆記用具。
だが、こちらではそれは生活用品や保存食でなければならない。
桐が着ていたのはいかにも育ちの良さそうな服。
しかしこの世界では、そんな格好では野盗に目をつけられるため誰もが質素な服を着る。
野宿に慣れていない惰弱さも、保存食の調理法すら知らなかった信じがたいまでの無知も、桐が世界を隔てた場所から来たのであれば不思議ではない。
桐が今まで生きていた世界では、少なくとも衣食住に困る事は無かったのだから。
仮令肉親との間に確執があろうと、食料を奪い合う事も無ければ住む場所を求めて彷徨う事も無いであろう世界だったはずだ。
弱冠震えを帯びた声を耳にして、リュウガは後悔した。
初めて出逢ったあの日、もっと詳しく話を聞いてやればよかった。
桐のことを、現状を受け入れていない哀れで無知な小娘だと勝手に決め付けてしまった。
彼女はあの時、確かに言ったのに。
“…ここ…どこなんですか”
現状把握に必死だったはずの桐の問いを笑い飛ばした過去の自分を殴り飛ばしてやりたい気分だ。
屈んで目線を合わせ、リュウガは恋人を優しく抱いた。
いつも抱き締め返してくるはずの桐は、躊躇いがちにリュウガの服の端を握るだけだった。
拒絶されるのが怖くて一歩踏み出せない、そんな仕草だ。
「頭がおかしいとか思わないんですか…!?わたし、絶対ヘンな事言ってるのに」
「だが真実なのだろう」
「……っ、」
それだけで、リュウガが桐の言葉を信じるには十分だった。
抱き締めた肩は震えていた。
リュウガの胸元で零れる吐息も濡れている。
服がじわりと温かくなり涙が染み込んだのだとわかっても、リュウガは桐を泣き止ませようとはせず、落ち着くまでずっと頭や背中を撫でていた。
ほんの数日前の桐がリュウガにした様に、彼も彼女の想いを受け止める為に。
俯いていた桐は緩慢な動きでリュウガから身体を離し、泣き濡れた瞼を指で拭って顔を上げた。
赤くなった鼻や少し腫れた瞼は御世辞にも美しいとは言えないのに、全てが今のリュウガの眼には愛しく映る。
リュウガが桐の湿った頬を撫でると、彼女は幾度も瞬きをして彼の瞳を見つめる。
胸を締め付けられるような想いを、リュウガは言葉に変えて囁いた。
リュウガの問いかけに桐は幸せそうに微笑み頷いた。
「ずっと…ずっと、一緒にいます…!」
彼女が頷くより先に、リュウガの唇が桐のそれを塞いでいた。
柔らかいランプの灯りの中で、二つの影が重なり合う。
どちらからともなく堅く手を繋ぐ。
灯りが消え、夜が明け、朝焼けを貫いて眩しい陽光が部屋の中を照らしても、繋いだ手が離れる事はなかった。
*
朝日の昇る頃、冷たい風に身を晒して、女が壊れかけた城を見つめていた。
ややあって女が踵を返すと、隣に居た男が声を掛けた。
「何が」
「もう成っているわ。けれど変わらない」
「あんたの言葉はよくわからねぇ」
「いいのよ、これで」
片割れの少女は、嘗ては異であったが今や異ではなくなった。
世界に溶けた彼女には、なんの心配も要らないのだ。
「だったら尚更良くねぇでしょう。風渡は次の…」
「いいの」
そして男の手を取ると、鏡に口付け、煙のように消えた。
彼らもまた1つの役目を終え、世界を移動した。
*
優しい男の温もりに抱かれた桐は、甘やかな眠りの中で夢を見た。
どこかで会った気がする、しかし見知らぬ美しい少女と話す夢だ。
桐は差し出された上品な白い便箋を受け取り、何も書かずに畳んで封筒に入れた。
何故か、何も書かなくてもいいような気分になっていた。
封をした手紙を少女に返すと、少女は白の中に吸い込まれて消えた。
そして桐の意識もまた、白の中に沈むように遠のいてゆく。
遠ざかる意識の果てで、誰かに名前を呼ばれた気がした。