"音楽だけは世界語であって、翻訳される必要がない。そこでは、魂が、魂に話しかける。"
アウエルバッハより
特務士官――正確に言うと特務少尉だ――に一気に昇進して、ラオウに褒美に欲しいものはあるかと聞かれたが望んだものはピアノだった。
それも、もとから城に置かれていた古いものを調律して自分が使いたい、というだけのこと。
チキンで庶民体質のにはそれくらいのことを考えるので精一杯なのである。
『そんなもので良いのか』
『は、はい。だめ、でしょうか…』
『いや、構わぬ。…ではあのピアノはこれからお前が自由に使え』
あまりに欲の無い申し出を却下する気にもなれず、ラオウはの願いを聞いてやったのであった。
『ありがとうございます、拳王様!』
『…うむ…』
ぱっと顔を輝かせたは、その後、士官として少尉相当の兵を含む特務小隊を与えられることになった。
が。
「まだ怪我が治っていないのだから大人しくしていなさい」
とレイナとソウガに口を揃えて言われ、リュウガには
「無理に動いて無様に転びたいか」
と脅され、はやることが無かった。そこに、使いたいといったピアノが部屋に運び込まれたのだから、これで暇を潰さない手は無い、とは上機嫌でピアノの前に腰掛けたのである。
「ふんふんふーん」
上機嫌に鼻歌を歌いながら、蓋を開けて、カバーを丁寧に取り、黒と白の細い鍵盤に指を置く。
(何弾こうかなぁ…うん、やっぱ、あれから)
の指が、優しく鍵盤を叩き始めた。
まずは仔犬のワルツから。
静かに始められた演奏は、瞬く間にピアノが置かれたその部屋を満たしていった。
ラオウに定期報告に来ていたユダは、謁見の帰り、廊下でふと足を止めた。
どこかから、ピアノの旋律が聞こえている。
「…珍しいな。この城にこのような美しい旋律を聞くことがあるとは」
一体何処の誰が弾いているのだろうか。
この、魂を震わせるような甘い旋律。
こんな殺伐とした時代に、ピアノなどを弾く余裕がある人間の顔が見てみたいものだ。
湧き上がる好奇心に、ユダは耳を澄ませ、音のするほうに足を向けた。
仔犬のワルツの後は、夜想曲。
穏やかで静かな曲だ。
久しぶりに弾くピアノに、つい嬉しくなって、は絶好調で演奏を続けていた。
夢中で、仕事と場所をすっかり頭から忘れ去って、後ろに人の気配を感じることすらなく。
どこかから聞こえてきたピアノの旋律に、リュウガは気づき、の部屋にピアノが置かれたことを思い出した。
しかし、彼女はピアノなど弾けたのか。
ラオウの機嫌をとるために時折音楽家などが連れてこられたが、いずれも怯え切って満足に演奏などできなかったし、こんなに弾き手の幸せそうな気分が伝わってくるようなものではなかった。
「…まさか」
一度湧き上がった好奇心を消すことは不可能だ。
そして、彼もユダ同様、旋律の流れる場所目指して歩き始めた。
清流のような澄んだ音、花咲く旋律。"華麗なる大円舞曲、変ホ長調"。
聴衆を陽気な気分にさせるメロディだ。
鍵盤の奏でる旋律にのって、は身体をかすかに揺らしながら、演奏を続けていた。やはりピアノはいい。
腕はだいぶ落ちてしまっているけれど、楽しむための音楽ならこれくらいでも悪くない。
ユダは徐々に近づいてくる音源に心を躍らせていた。
顔も見えぬ奏者は、どうも相当ピアノが好きなようだ。何と楽しそうに弾くのだろう。
その演奏の美しいことといったら。
唇をゆがめ、期待に笑うと、前方から人影が近づいてきた。
「…リュウガか」
「ユダ」
銀髪の男は、ユダを見ると一瞬眉を顰めたが、すぐに手前の部屋を見遣った。
「顔の見えぬ奏者に引き寄せられたのか?」
「…そんなところだ」
閉じられた扉の向こうから、美しく流れる旋律に、ユダは身体を震わせた。
そして扉に、静かに手をかけ、開く。
扉の向こうでピアノに向って演奏を続けていたのは、一人の娘だった。
(最後は、やっぱりこれにしよう)
ショパンを弾き終えて、はクラシックから少し外れて趣味に走った。
"戦場のメリー・クリスマス"。
数多くある映画音楽の中で、が一番好きな曲のひとつだ。
静かで切なくて、優しくて哀しい曲。
その中に、強い愛情や人間性が含まれているようには感じている。
苦しみの中で足掻いて生きようとする人間性が顕われていて、初めてこの曲を聴いてからはずっとこの曲に惚れていた。
(苦しくって、辛くって、)
(でも、希望を持って前を向いていく感じ)
(やさしいやさしい、きれいな曲)
ゆっくりと音を伸ばし、溶かすように曲を弾き終わると同時に後ろから聞こえてきた拍手に、は飛び上がろうとして椅子ごと後ろに倒れた。
「いっひゃう!?」
がたん、とけたたましい音が響き、思い切り腰を打って、は変な声を上げた。
腰を抑えて扉の方を見ると、赤い髪の個性的なメイクを施した男と銀髪の上司がを見ていた。
のリアクションに赤毛の男の方は噴出しそうになっているが、リュウガは額に手を当てて呆れている様子である。
「のわああ!?リュッ、リュウガさん、と、ええと、見知らぬお方!?」
「ユダだ。若き奏者殿」
「ユダさんですか!初めまして、私と言います!こ、腰いて、」
が腰を擦っていると、リュウガが近寄ってきてしゃがみこんだままのを見下ろした。
「派手に倒れたな」
「びっくりしたんで、」
「お前は何をしても騒がしすぎる」
「……申し訳ありませんでしたね!」
相も変らぬ俺様な物言いにが腹立たしげに切り返すと、リュウガはしばらくを見つめ、呆れた様子で云った。
「…大人しくしていろと言っただろう。何度も言わせるな」
「う」
「さっさとベッドに戻れ」
それだけいって、リュウガはあっという間に部屋を出て行ってしまった。
はむう、と口を尖らせて、腰を擦りながら立ち上がった。
そこに、ユダが苦笑しながらに声をかけた。
「なるほど、怪我をしているのか」
「あはは、かすり傷なんですけどね」
「…面白いお嬢さんだ。今度ピアノを弾くときは是非呼んでくれたまえ」
「あ、はい」
「ではオレは行こう。失礼する」
濃いメイクの個性の強い男だが、常識くらいはあるらしい。
初めて会った普通の(?)人間に、は感動しながら、はい、と頷いた。
例に漏れず、結局彼もどこかズレた人間だとが気づくのはまだ先のことである。
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