(夢主視点) 服装、よし。清楚な白シャツで露出少なめ、胸元は隠して、代わりにスカートは膝上10センチ。髪型、よし。しっとりつやつや、毛先はふんわりウェーブして、くどすぎない香油の甘酸っぱい香りがする。リップ、よし。口紅の色をサーモンピンクからベビーピンクに変更してセクシー路線ではなくあどけない可愛らしさを。ネイル、よし。今日も爪の表面はつるつるピカピカだ。メイク、よし。メイクする前には顔をおよそ42度の温タオルでふっくらしっとりさせて。元の世界に比べて粉の荒い白粉には少しだけ保湿用のオイルを混ぜて伸びを良くし、メイク後の肌の艶と潤いもキープ。高めの位置のチークで溌剌とした印象を。無駄毛?19の時に永久脱毛してあるからほとんど生えてこない。生えてきてても見逃すわけない。 「……オーケイ、戦闘開始」 何の戦闘ってもちろん恋のだ。9割がた告白されたようなもんだからって手を抜くなんて言語道断。愛の言葉を貰いたければ相応の努力をして当然。のっけからありのままの私がいいだなんて言う男は好きじゃない。その台詞を出してもいいのはスッピンを見てからだ。 この世界で私に恋してくれる男は皆メイクをした私しか知らない。彼らの前で本気のスッピンを晒したことは一度も無いからだ。彼らがスッピンだと思っている私の顔は、野宿で寝る時や、風呂上りでさえも僅かながらも眉を書き、口紅を塗った状態を差す。もちろん顔で男に媚びてるんじゃない。心を許してもいない男に素の自分を晒すのが嫌なだけだ。だってスッピン見た相手が、この子意外と手を抜くんだなーなんて思ったなら、知りもしないで女を語るなって殴り飛ばしたくなるもの。 それに何より、好きな人にはもっと好かれたいって思うじゃないか。綺麗だ、可愛いなって思われたいじゃないか。だから待つにしたって本気で、全力でこっちを見てって主張する。かつての友人は恋した私がエンジン全開になると同じ相手を狙う他の女が可哀想だと評した。こっちにそんなつもりが無いわけでは、ない。当たり前だ。 女の恋心は打算と情熱と、ほんの少しの純粋さで出来ている。それの何が悪いのか。 好きな相手に、好きになってもらうために全力で好意を主張をしているだけだ。一生懸命に恋をしていれば周囲の目なんかに構っている余裕なんて無くなる。卑怯だのあざといだのと文句をいう人間は結局、本気で相手に好きになってほしいと思っちゃいないのだ。私はヒュンケルに愛して欲しい。これまでのどんな男よりも真剣に、深く、長く。 人一倍身支度に時間がかかるために砦の大部屋を出るのは私が一番最後。 メイクと髪型のチェックをして手鏡をスカートのポケットに入れ、ドアを開けて廊下に出ると、ばたばたと忙しそうに兵士が一人走り抜けて行った。 「そっか。今日中に撤収だっけ」 宴の翌日、皆はレオナがガン押しした凱旋のためにパプニカに行動拠点を移すことになった。アバンさんはフローラ様と一緒にカールに行くという。ちなみにロンさんは「面倒臭い」の一言で凱旋への参加をバッサリ断り、弟子入りしたノヴァを伴ってランカークスに戻った。気難しい人だから仕方ないよねと苦笑した仲間達だが、私のカンでは、あれはランカークスの酒を飲みたいが為の口実だ。ランカークスにいるのは酒が美味しいからだと本人から聞いた。面倒臭いじゃなくて好きな酒が飲みたいだけ。間違いないよ、と言い切ったら「イソーローって1年以上すると夫婦みたいになるんだね!」とダイに無邪気に明るく言われてしまい、言葉のアバンストラッシュで心がザックリいった。うん、そう…居候の分際で舐めた口聞いてすいませんでした…。 砦の中を片付けてパプニカに出発する準備をしていると、アバンさんが何やら手招きしている。どうでもいいけどこの人の髪型どうなってんだ。シューベルトかよ。絶対髪下ろしたほうがイケてるよね。招かれるままに部屋に入ると、丸い木のテーブルになんとも本格的なアフタヌーンティーセットが準備されていた。ご丁寧にスコーンとジャムまで置いてある。焼いたのかなスコーン。聞いてたとおり何でもできるんだなー。 「んー…これは一体」 「ま、ま、座って座って。ティータイムに付き合ってくださいよ〜」 アバンさんは私を小さな椅子に座らせてささっとお茶をティーカップに注いだ。赤みがかった茶色い液体が湯気を立てながらカップの中で揺らめく。自分の教え子ではなくてなんで私か。 「片付けなくていいんですか?」 「大丈夫大丈夫。忙しくなる前に貴女とお話したかったんです。さん」 手早くお茶を入れてスコーンを小皿に乗せて勧められ、これは逃がすつもりがないなと諦めてカップを取った。火傷しないように気をつけながら一口飲むと、紅茶の香りが広がった。 「…美味しい!淹れるの上手ですね!」 「ありがとうございます。口に合ったようで良かった」 アバンさんは満足げに微笑むと自分もティーカップを持ち上げて口をつけた。出されたものは食べきるのが礼儀とばかりにスコーンに手を伸ばし、食べやすい大きさに手で割ってジャムをつけて頂いていると、アバンさんがじっとこっちを見ていることに気付いた。 「何か不作法してました?」 「ああいえ、そんな事はありません。美味しそうに食べてくださるので、つい」 答えを聞いて、嘘だな、と直感する。アバンさんの経歴はある程度聞いている。彼は生まれもいいし、作法を躾けられて育った人に違いない。金持ちと話をする機会がこれまでに幾度かあったけど、彼らはスコーンは手掴みで食べない。ナプキンを使うのだ。いきなり女に生まれを聞くのは不躾だから行動から私の育ちを探ろうとしているんだな。よくあることだからなんとも思わない。 「…はっきり申し上げてくださって結構ですよ。ナプキンを使うようにって」 「!」 「私の生まれた場所ではスコーンを食べるのにナプキンなんて使わなくてもマナー違反じゃなかったから、つい手掴みにしちゃって。ごめんなさい」 「いえ、私こそ失礼な事をしました。美味しく食べてくださった方が良いに決まってますから、どうか気になさらないでください」 アバンさんの私に対する態度はなんだか上滑りしている。私の職業とやってることがあんまり一致してない事で不思議な印象をも耐えれているのかもしれない。実際兵士さんに、「殿は踊り子なのに何故戦いに参加していたんですか?」なんて聞かれることがある。踊り子ってのは本来戦いになんか参加しないらしい。私もそれは思っていたけど、関わっちゃった上にロンさんに鍛えられたから参加せずにいられなかっただけだ。 それにしても、話に聞いていたよりよっぽど普通じゃないかこの人。探り探り話をしようとするとことか。 「…なんか、聞いてたイメージと大分違うかも」 「えっ?」 「皆から聞いたアバンさんって、要領よくてなんでもソツなくこなせる感じの印象だったんで…あ、別に違うからどうってわけじゃないんです。むしろ安心しました、普通だなーって」 スコーンを齧って苦笑したら、アバンさんも少しだけ肩の力が抜けたのか、ほっとした表情になった。 「…私も少し安心しています。貴女は美しく聡明でハッキリした性格の女性だと聞いていたので、なんというか」 「コワイ女かもって?」 「いやあ、ははは…」 「ま、ほぼほぼ合ってるか。私、慣れてくると対応が雑ですから」 「というと?」 「んー。例えば、ヒュンケルの頭シバキあげたりとか」 それも本で。と伝えると、アバンさんは目を丸くして、ぷっ、と噴きだした。 「あの子は貴女には随分と好意的に接しているようだ」 「ソレ、からかわないであげてくださいね。本人は無意識だから」 「おや。お気づきでしたか」 「気付かないほうがおかしいでしょ」 ヒュンケルの名前が出た途端、アバンさんの反応がよくなった。そう言えばヒュンケルは以前はこの人を憎んでいたんだっけ。今はどうなんだろうか。憎しみは無さそうだけど、お互いに複雑だろうな。とすると、もしかして。 「……彼のこれまでを聞き出したいなら、本人に直接聞いた方が良いと思いますけど」 カマをかけてみるとアバンさんは笑みを消して、ティーカップをソーサーに置いた。 ビンゴだ。 「参りましたね……頭のいい人だ」 ヒュンケルから聞いた話では、15年間もずっと彼はアバンさんを憎み続けて生きていた。21年間の人生のおよそ4分の3だ。幼かった彼はそうする事でしか生きることができなかった。その気持ちを全部ゼロにして、勘違いだったゴメンナサイで好意的な態度をいきなり取ることはできないだろう。不器用な性格なんだから、尚更だ。 アバンさんもそれを理解しているから、少しずつ周囲から事情を聞いて、どういう態度を取ればいいのか探ろうとしているのかもしれない。 なんだ。 この師弟、どっちもただ不器用なだけじゃないの。 「ま、美味しいスコーンも頂いちゃったし……独り言を聞いただけなら話は別ですよね」 アバンさんも年上の男性とはいえ複雑な事情を持っていそうな感じだ。困っているのを見ていると可哀想になってきたので、知っていることだけは話してみよう。それでヒュンケルとアバンさんの関係が少しでも修復できるなら、悪い話ではないのだし。 * (ヒュンケル視点) 勇者一行は凱旋でベンガーナに来ている。カールの砦を撤収してから、アバンとフローラ女王を初めとするカールの者達以外は一度パプニカに移動し、ロモスとテランでの凱旋を経て3つ目の国がここだ。連日の騒がしさで戦いとは違った疲れを感じる。今日一日は自由にしていいと聞かされているので、暇でも潰そうかと街を一人で散策して、日当たりの良い高台の坂の塀の上に腰掛けて街を見下ろした。 石造りの街の中心には百貨店と呼ばれる大きな建物があり、レオナ姫が立ち寄りたいとはしゃいでいた。ドラゴンに破壊されたと聞いた街の一部は既に瓦礫が取り除かれ、新たに住居を建築している箇所が目立つ。傍には薄い茶色の煉瓦が積み上げられている。この街の建物はみな同じ色の煉瓦が使われているようだ。 ベンガーナと特に結びつきが強いのはだ。彼女は超竜軍団によって攻撃を受けた街の復興に協力し、ベンガーナ王に気に入られたらしい。パプニカではサミットにまで連れてこられる程の寵愛振りだったと聞いた。しかしそれ以上に、魔王軍の急襲で被害を受けて苦しむ国民絶ちの心の支えとして多くの仕事をこなしていたため、いまや白銀の踊り子といえばベンガーナの誇りとまで呼ばれ、勇者の次に人気があるという。そこまでの人気とは知らず、気持ちに焦りが生じ始めている。 マァムの言葉が頭の中で繰り返される。 『貴方も想いを伝えて』 戦いは終わったと言うのに、いまだ彼女に自分の想いを伝えられていない。エイミにはを愛しているとはっきり告げたものの、肝心の本人にはあの日の続きを言えないでいる。 理由は一つだ。 彼女は踊り子としての未来を目指していると話していた。しかしオレには既にパプニカの民を滅ぼした罪人の咎がある。最初から彼女を愛する資格などない。 バーンを倒した後、カールの砦で舞い踊った彼女はこれまでで一番美しかった。はこの先も華麗に踊り、多くの人間に愛されて生きるだろう。美しい笑顔と優美な舞で輝くのだ。彼女は光の中に居なければならない。闇を抱えてしまった人間が傍にいては、彼女の光が曇ってしまわないだろうか。 最後の言葉を告げたら、はオレを本当に受け入れてくれるだろうか。 今のところ彼女に嫌われている様子は無い。しかし人当たりのいい彼女だから、単純に嫌な顔を見せずに接してくれているだけかもしれない。だがどうでもいい相手に、全て魔法力を注ぎ込むほど回復呪文をかけるだろうか。否、単純な戦力として個人の感情を殺して行動するくらいならやれるのかもしれない。しかし嫌いな男の頬に口付けて、待っているなどと告げるものだろうか。ただ気力を引き出すためと考えられなくもない。彼女の心がわからない。 これまで誰かの自分に対する感情など気にすることなく生きていた。だが、今は彼女の気持ちが知りたくて堪らない。はオレをどう思っているのだろう。想いを受け入れてくれるだろうか。 それとも―― 「なにやってんの?」 「!」 思考の海に沈んでいると視界の端に黒髪が揺れた。振り返ると今しがた思い浮かべていた女性が笑顔で首をかしげている。 「…何故ここに」 「近くにお気に入りの薬屋さんがあるから来てたの。あんたは?」 「あ、ああ。オレは少し散策を…」 「そっか。何か面白いものでもあった?」 「…街を見ていたんだ」 答えると、はオレの隣に腰掛けて街の説明を始めた。あそこに見えるのが百貨店で買い物なら間違いない、西側の区画は繁華街で客引きの女性が夜になると沢山いるから要注意、手前が商人の多い通りで知り合いの商人が何人か住んでいる、街の東の端は教会で建物の高さはこの街で城の次に高い、など。楽しそうに説明する表情が愛らしくてじっと聞き入っていたら、不意にが問いかけた。 「…ところでさ、お腹空かない?」 尋ねられて、昼食をまだ摂っていないことを思い出した。 「ああ…」 「それじゃ、ホットサンドがすごく美味しい屋台のお店があるんだけど、一緒に行かない?一人で食べるの寂しくって」 「構わないが、いいのか」 「んー?」 「ここの住民はお前を慕っているのだろう。一緒に歩いては邪魔に…」 「なるわけないって。ほら行こ!」 柔らかい手がすっと伸びて、胼胝だらけのこの手を攫ってゆく。何気ない仕草に心臓が跳ねて、少し前を歩く彼女を見つめた。の手は肌が滑らかで美しい。魔法のように美味な食事を作り、傷を癒す柔らかい手だ。 強く掴んで引き寄せたらどんな顔をするだろう。分不相応だと解っていながら想いを止められない愚かな男を、どう想っているのだろう。手を繋いでいるのに遠く感じる。 「…どしたの?」 「いや、」 前を歩く彼女が振り返り、はにかむように微笑む。 同じ気持ちでいてくれていると思うべきなのだろうか。 彼女を男として守りたいとまで言ってあるのだから、こちらの気持ちはほとんど伝わっていると考えてもいい。膨らみ続ける感情を言葉にして伝えていないだけだ。そんな男と手を繋いで歩いているのだから、受け入れてくれているのではないか。いや、実際に彼女の心を確認したわけではないのだから思い上がるべきではない。 どんな敵が相手だろうと怯んだ事は無かった。 それがいまや目の前の女性一人の拒絶が怖くて踏み出せない。 この膨れ上がりすぎた感情をぶつけていいのか、こんな男に愛されなどして迷惑ではなかろうか。 手を繋いだまま街の中を歩く。時折が建物を指差して説明をしては優しい笑顔を向けてくる度、このまま時間が止まればいいと願ってしまう。 食堂が軒を連ねる通りに出ると、小さな屋台の前でが立ち止まった。 「見てヒュンケル!ここのホットサンド、チーズとベーコンの塩加減が絶妙ですっごく美味しいんだよ」 繋いだ手が離れて、寂しいようなほっとしたような不思議な気持ちになる。は屋台の店主に近づいて明るく声をかけている。 「やっほーおじさん!」 「ちゃんじゃねえか!」 屋台には初老と見られる小太りの男性が居り、鉄板で調理をしていた。 「えへ、来ちゃった。いつものホットサンド4個ね!」 「なんだいなんだい、男連れでよ。カレシかい?」 「からかわないでよー。この人はね、勇者の仲間の戦士さん」 「そうか勇者の…………………なにぃぃぃぃぃ!?」 にこやかに紹介されて何を話せばいいのか戸惑っていると亭主が驚きの声をあげて屋台の裏で作業をしている女性を呼びつけた。 「かーちゃん!!ちゃんが勇者様の仲間を彼氏にしてきやがった!!」 「何をバカなこと言ってるんだい、あの子はまだ凱旋の途中でってあれまあほんと!!」 「だから言っただろうがよ」 「あれあれあれ優男じゃないのさ!ちょっとまあ、ちゃんどうしたの忙しいのに、お腹空いてないかい?ホットサンド食べなさい!ホラお兄ちゃんあんたも座って、まあまあ素敵な人を捕まえたわねえ」 「兄ちゃん、10個くらいいけるよな!?うちのホットサンドは格別だぜ〜」 「いや…オレは…その…」 「んー。二人ともちょっと落ち着…」 「あんたが勇者様に協力して大魔王を倒すために仕事を抜けたって聞いて、あたしゃもう心配で心配で夜も眠れなくってねえ」 「よく言うぜ毎晩いびきかいてたくせに」 「余計な事いうんじゃないよっ!」 「あいたっ!」 「ダメだ話聞いてないわ…」 「……」 亭主とその奥方と見られる二人の掛け合いは続き、結局その場で食べたもの以外にホットサンドを20個も貰った。お土産だと言ってホットサンドをどっさりと詰め込んだ袋を二つも持たされ、仕方なく10個ものホットサンドが入った袋を一つずつ抱えて、二人で持ち帰る事になってしまったのだ。凄まじい勢いだった。 「な…なんかごめんね?あんなに騒がれるとは思ってなくて」 は申し訳なさそうに苦笑したが、それよりも彼女と時間を過ごせたことの方が嬉しい。 美味しそうにホットサンドを頬張る仕草など新鮮で愛らしかった。美味しそうに食事をするのは彼女の長所だと思う。見ていて心が癒される。 「…本当に慕われているんだな」 「んーそうみたい。嬉しいけど恥ずかしいね、ああいうの」 「白銀の…」 「ちょ、それやめて、ホントに」 「似合っていると思うが」 「無理無理身体が受け付けないから!」 他愛無い話をしながら隣を歩く彼女の速度に合わせてゆっくりと路地を進む。これ以上騒がれては面倒だから裏道を歩こうと彼女が言ったので、路地には人気が全くない。静かな道を歩いていると、ふと彼女の髪に何かが絡まっているのに気付いた。緑の小さな葉だ。 「。髪に木の葉が…」 「え?どこ?」 指摘すると、ホットサンドの袋を片手で持ったままが空いた手で葉を取ろうと髪を探る。 「左側についている」 「こっち?」 「そのまま少し上だ」 「?この辺?」 「行き過ぎた、もう少し下に…」 「ええーどれ?わかんない、取ってー」 は言うなりすぐに背を向けた。最初からオレが断るとは考えていないらしい。確かにこんな風に頼られたらどんな男も嫌などとは言わないだろうが、彼女はこちらの想いに気付いているはずだ。にも拘らず男に背中を見せるなど無防備すぎる。何かされるとは思わないのだろうか。 後ろを向いた彼女の髪に恐る恐る触れると甘い香りが漂ってくる。戦いの中で漂わせていた花のような香りとは少し違う、甘酸っぱい果実に似た甘い香りだ。警戒することなく背を向けている細い身体を抱きしめたい衝動に駆られる。魅了の妖術にかけられたように吸い寄せられて、どうにか気を紛らわせようと話しかけた。 「、」 「んー?」 「お前の髪だが、…その、前の香りとは…違う香りが…」 「あ、わかる?香油変えてみたの。こういうの嫌い?」 「いや」 好きだ。香油ではなく、が。たったこれだけの言葉が出てこない。ポップもマァムに言葉を伝えるまでは同じような気持ちだったのだろうか。 ところで香油というものは娼婦が使うけばけばしいイメージだったが、彼女の言葉で途端に良いものに思えてくる。相当にダメな所まで来ている気がする。恋に狂っている自分を止められない。咳払いをして、艶やかな髪に引っかかった木の葉を取り除いて捨てる。 「…取れたぞ」 「ん。ありがと」 は乱れた髪をしなやかな手さばきでさらりと直して微笑みかけている。何気ない仕草を綺麗だと漠然と思う。ホットサンドが腕になければ本当に抱き寄せていたかもしれない。胸に抱く想いはいつ飛び出してもおかしくないほどに大きくなっている。このままでは彼女に何をするかわからない。 「行こう」 「うん……ひゃっ!?」 爆発しそうな心を押さえようと歩き出した時、隣で彼女が割れた石畳の欠片に躓いて体勢を崩した。 咄嗟に細い二の腕を掴んで、転びかけた彼女を引き寄せる。 「……!」 艶やかな髪が鼻先を掠め、甘い香りが脳髄を灼いていく。 触れ合いそうな位置で、瑞々しい桃色の唇がオレの名を紡いだ。 長い睫毛に縁取られた瞳が微かに熱を孕んで揺れている。 柔らかい腕の感触と縮まった距離に頭の中が真っ白になる。 抑えがきかない。 「、オレは…!「あーっ!いたいた、ヒュンケル、さーんっ!!」……」 勢いのままに想いをぶつけようとした瞬間、路地に底抜けに明るい声が響いた。 一気に力が抜けた。 この無邪気な声はダイか。 掴んだままでいた腕を放して声のした方向を見れば、駆け寄ってくるダイの後ろでポップが両手を合わせて申し訳なさそうにしている。 「んー…」 「すまん……気にしないでくれ」 は苦笑して肩を竦めた。あの日の続きは今日は言えそうにない。完全にタイミングを逸した。間が悪すぎる。否、公共の場で昼間から勢いに乗ろうとしたのがいけないのか。密かに自己嫌悪に陥っていると、駆け寄ってきたダイがの傍で立ち止まった。 「散策に出かけたっきり戻ってこないから探して……あれ、なんだいその袋?」 「あ、これ?私の行きつけのお店のホットサンド。みんなにお土産だよ」 「へえ!食べていいの?」 「うん。戻っておやつにしよっか」 「やったっ!」 ダイはの隣を歩いて嬉しそうに表情を輝かせて、頭を撫でられている。あっという間に隣まで取られた。流石に年下のダイに嫉妬するほど心は狭くはないつもりだが、これは成人男性として情けなすぎる。 「ほっんと悪ぃ…!」 「……いや…」 |