(ヒュンケル視点)
まずい。
顔を見るだけで髪の匂いと柔らかい肌の感触が思い出されてしまう。次に二人きりにでもなろうものなら自分が何をするかわからない。落ち着いた甘い声と大輪の花のような笑顔を誰もいない時に向けられたら、この感情は次こそ爆発する。もっと触れたい。に、あの美しいしなやかで柔らかそうな肌に。
勢いでパプニカ行きの船に乗る時も抱き上げてしまったが、思い返せば馬鹿なことをした。突然抱き上げたりなどして不愉快ではなかっただろうか。何も言わずにじっとしていてくれたが、あれはもしや嫌過ぎて言葉を失っていたのではないのか。平常心を保つのに精一杯で顔など見ていないので、彼女がどんな表情をしていたか知らないのだ。想いを伝え切れていない相手にすることではなかった気がする。
高揚しがちな浮ついた気分を抑えるために、パプニカに戻ってからの数日はラーハルトと手合わせをやって気を紛らわしている。ラーハルトは特に何も言ってはこないが、代わりに容赦のない槍捌きで応えてくれた。剣を振っている間は彼女の事を考えることもなく、平和すぎて鈍りがちな身体も適度な運動ができる。悶々とするより健全だ。
今日もまた手合わせを終え、ラーハルトと二人でパプニカ城内を歩いていると、中庭で彼女の姿を見つけた。
白銀の踊り子と謳われた麗しい女性は、中庭の木の下に座って陽光を浴び、気持ちよさそうに風を受けて転寝をしている。緩やかに靡く髪が陽光を受けて輝いて、さながら女神だ。容姿に関して言えば彼女のそれは群を抜いていた。凱旋の途中で合わせられた貴婦人の何人かが悔しげに彼女を見て、踊り子娘が、などと陰口を叩いていたのが気になるが、彼女は気にしていない様子だった。
戦いの後、彼女は一段を美しくなった気がする。服装が変わったからだろうか。以前は露出が多く動きやすそうな格好をしていたが、今は戦う必要が無くなったからか愛らしい服装が多い。凱旋で煌びやかな格好をしたから一層美しさに磨きをかけたのかもしれない。男と擦れ違えば10人中7、8人は必ず振り向くのだから相当だ。
こんな所で寝ているのを放っておいていいものかと思案していると、隣のラーハルトが何かに気付いて顔を上げた。
「!おい」
「なんだ」
「上を見ろ」
鋭い言葉に彼女の頭上を見れば、侍女らしき女が彼女のいる場所に向けて水瓶を傾けている。何をしているのだろう。下にがいることに気付いていないのか。
「あれは…」
「ちッ!」
目に飛び込んできた光景が理解できずに戸惑っていると、水瓶の中身が目掛けてぶちまけられた。ラーハルトが瞬時に動き、彼女を抱えて水を避けようとしたものの間に合わない。頭上から撒かれた水が半魔の男の身体を半分以上も濡らし、抱え上げられた彼女の身体の一部も飛んだ飛沫で濡れた。突然の水の冷たさに眠っていたショウコも目を覚ます。
「っわ、つめた…!?」
「くそッ!」
「!ラーハルト!」
駆け寄るとラーハルトがをオレに押し付けて、頭から被った水を鬱陶しげに手で拭う。ラーハルトの金髪から水が滴り、上半身は全て濡れてしまっている。
「やだ、ラーハルト、あんたそれ…!」
「のうのうと昼寝などしているからだ」
「はっ早く拭かなきゃ、」
「いらん」
は濡れずに済んだ膝掛けで水を被ったラーハルトの身体を拭き始めるが、ぶっきらぼうに拒否されて困惑した表情を浮かべた。どう声をかけるべきか迷っていると、膝掛けを持ったままの彼女がラーハルトに頭を下げた。
「……巻き込んでごめん」
「ハッ。謝られてもな」
「だって巻き添え食って濡れちゃったじゃない。私にかけられた水なのに」
不機嫌そうなラーハルトをが申し訳なさそうに見上げる様子に、胸がじくりと痛む。彼女を守るどころか、友人すらも不快な思いをさせてしまった。誰にでも好かれていると思っていた彼女に悪意が向けられている事も衝撃的だが、それに気づく事もなく守ってもやれなかった自分がもどかしい。
「……これは一体……」
「んー……良くも悪くも目立つからさ。時々あるんだよね、こういうの。無視してたんだけど」
「わかっているなら無防備な行動は慎め。余計な手間をかけさせるな、迷惑だ」
「うん、ごめん……庇ってくれてありがと」
厳しい男の言葉には反論することなく頷き、顔を上げて微笑みながらラーハルトに言った。胸の奥にじわりと黒い染みが広がる。彼女は今、自分を守ってくれた男に礼を言っている。しかしそれはオレではなく咄嗟に行動を取った友人だった。守りたい人を守れもしない、情けない男がここにいる。醜い感情が湧き出てきそうな時、がオレを見て言った。
「ヒュンケルもありがとね」
「いや……オレは何も……」
「でも心配してくれたから。びっくりさせてごめんね」
違う、彼女は何も悪くない。悪いのは異変を感じておきながら止めることすらできなかったオレだ。庇うことすら出来ず、結局友がそれを行った。悔しさと情けなさが入り混じって苛立つ。
「……お前が謝る事ではない」
「え、ちょっと待って、」
吐き出した言葉にはさしたる気遣いもなく、居た堪れずに彼女の言葉も聞かず足早に中庭から離れた。子供でもあるまいし、嫉妬などみっともないと頭では解っている。に悪気がないのも解っている。彼女は自分を助けてくれたラーハルトに礼を言っただけだ。常識的に考えても自然な行為だというのに心が乱れるのは、二人の間にある不思議な縁を知っているからだ。
ラーハルトはたった一度しか逢わなかったが落としたピアスを拾ってやり、死に際に涙する彼女にそれを手渡した。わざわざ、いつ会うかわからない女のために大切に持ち歩いてだ。同じ男としてあのような行動は何の感情もない女性にすることではないと思う。
おそらく、ラーハルトは彼女に一定の好意を抱いている。それがオレと同じものかどうかはわからない。だがダイ以外の他の人間に比べても、あの人間不信の男が、彼女にだけはある程度まで心を許している事は確かだ。蘇ったあの男に最初に会ったのもまただったと聞いて、焦りのような感情が芽生えたのも事実だった。自分の死に目を看取った女と再び出逢った男。まるで運命付けられているかのような二人の縁。会いたくても会えない日々ばかりが続いたオレとは違って、何もせずとも引き合わせられている。
はあの男をどう想っているのだろう。奇妙な縁を感じているのだろうか。黒の核晶を裏で処理していた時は協力し合い、ドワーフ探しにあの男が彼女に手を貸したと聞いた。状況が状況ゆえに仕方がなかっただけかもしれないが、邪推してしまうのはオレが一方的にを愛しているからだ。
胸がじくじくと痛む。今のままでは彼女を傍で守れない。だが彼女を守るべき男はオレでなくてもいいのかもしれない。守りたいのも、勝手に自分が想っているだけだ。
そこまで考えて重大な事に気づいた。
何もせずとも嫌がらせを受けるのならば、罪人であるオレが彼女の隣にいたら、嫌がらせ程度ではすまない扱いをされかねない。今回は水で済んだからマシだ。しかしパプニカを滅ぼした男を恨む者は多くいる。そんな男の隣にいて、水程度で済まされるはずがない。最悪の場合は命の危機に晒されるかもしれない。守りたいなどといっている場合ではない。傍にいるだけで彼女を傷つけかねないのだから。
深く吐き出した溜息が薄暗い廊下の冷えた空気に溶けていく。自分こそ水でも被って、頭を冷やすべきだった。舞い上がって大切な事を見落としていた。オレ自身がどう想っていようとも彼女の未来の妨げになるのならば、この気持ちは抑えなければならないことを。
*
(夢主視点)
まさかのタイミングでヒュンケルとラーハルトにみっともない所を見せてしまった。普段なら回避できたはずが、連日の凱旋の疲れでうっかり寝入ってしまったのだ。間一髪でラーハルトが助けてくれたけど、代わりに彼が濡れてしまった。上から聞こえた「尻軽」という言葉なんてどうでも良かった。自分のせいで仲間が不快な思いをしてしまった。しかもヒュンケルはどういうわけか不機嫌そうにその場を離れてしまい、声をかけても無視された。消沈した私に、残されたラーハルトが面倒臭そうに舌打ちした。
胸が痛い。自分に好意を抱いている人に急にそっけなくされるとショックだ。知らないところで恨みを買ってる面倒な女だって思われたのかな。自分の容姿が原因で妬まれる事なんて、ある程度の年頃からはよくあることだった。だから敵になりそうな人間には注意して近づかないように当たり障りなく世渡りしてきたつもりだった。だけど今回のような、世界中を凱旋するなんてイベントじゃ誰が敵になるかなんて調べ切れなくて、気難しそうな侍女や貴族のご婦人方には近づかないようにしたけどダメだった。
別に綺麗でいる事を諦めるつもりはないし、好きに言わせておけばいい。自分が自分を磨きたいからそうしているだけなんだから文句なんて言われる筋合いもない。でも女の醜さを向けられているのはみっともなくてあまり人に知られたくなかった。それをよりによってそれを好きな人に見られて、その上冷たい態度を取られたのはキツイ。
水をかけられた事よりもこっちの方が落ち込みそうで肩を落としていたら、濡れたままのラーハルトが苛立ちながら言った。
「さっさと追いかけろ」
「ムリ。嫌がられたりしたらそれこそ凹んじゃう」
「……付き合ってられん」
ラーハルトは呆れた様子で歩き去り、一人ぽつんと残されて深く溜息をついた。
早く言って欲しいのに、なんだか上手くいかない。私のこと、どうでも良くなってきたのかな。告白したくてもタイミングが合わせられなくて嫌になっちゃった可能性はある。でもこっちだってめげずに自分から積極的に話しかけたり、服装だって軽い感じに見られないように前より露出を控えてキレイ系にして彼の目に留まるように努力はしている。
こういう格好は好きじゃないのかな。それとも、もっと時間を取ってなるべく近くにいたほうがいいのか。
でも今ので嫌われたのなら近づかない方がいいのかな。なんか落ち込んできた。気持ちに余裕を持っていたつもりだったけど、余裕を見せるより健気にアピールすべきだったのか。こういう時はじっと待つのが一番だという事はわかっているけど、だんだん不安になってきた。
早く言ってよ、好きだって。
そしたらちゃんと、私も、って言うのに。
*
(クロコダイン視点)
「おう、戻っ……ってどうしたよお前、びしょ濡れじゃねえか!」
パプニカ城の大部屋でヒムと話していると、ヒュンケルと手合わせをして来ると言って出て行ったラーハルトが上半身を水に濡らして帰ってきた。髪から水を滴らせている姿にヒムがぎょっとして声を上げる。
「何でもいいから拭くものを貸せ」
「ウ、ウム」
手近にあった布を渡すとラーハルトは乱暴に頭を拭い、不機嫌そうに舌打ちした。
「一体どうしたのだ」
「……あの女だ」
「あの女?」
「だ。知らん所で恨みを買っている。傍迷惑な」
「まさか、水をかけられたのか!?」
「中庭で眠りこけていた所をやられた」
この場合、察するに眠りこけていたのは恐らくなのだろう。この男が誰かの敵意に気付かないほど眠る事はありえない。
「ヒュンケルはどうした。一緒に居たのではないのか」
「知るか。あの阿呆が突っ立って動かんおかげでこのザマだ」
色々と省いて説明をされるのでわかりにくいのだが、推測するとが水をかけられて、この男がヒュンケルの代わりに間一髪でそれを庇った、と言う解釈でいいのだろうか。
「んで、姐さんは大丈夫なのか?」
「水が当たる前に移動させたんでな。肩が少々濡れただけだ、大事無い」
どうやら先ほどの解釈で合っているようだ。難儀な所に居合わせたものだが、大事でないのならば良かった。少しばかり安堵して息をついていると、ヒムが訝しげに漏らした。
「しっかしなんでまた……オレ達ならわかるがよ、姐さんは人間だろ」
「あの女に限らん。目立つ容姿をしていると良くあることだ、どうせ妬みだろう」
「妬みぃ?」
「……まあ美人だからなあ」
は女性らしさを詰め込んだような美しい姿をしている。顔立ちが整っているだけではなく、全身を美しく保っているのだ。その輝きで何人もの男が魅了されている。ヒュンケルはもそこだけで惚れたわけではないだろうが、惹かれる要素の一つとしては大きい。故に女性の中には、マァムのように彼女に憧れるのではなく反感を抱くものもいるのだろう。
ある意味、男の強さへの憧憬と似ているのかもしれない。弱い者が強い者を羨んで妬むのと同じで、美しい者をそうでない者が妬むのだ。
「そりゃしょうがねえだろ、姐さんだって自分で美人に生まれたわけじゃねえし」
「本人にどうにもできんことを妬まれる事もあるものだ。オレ達が魔物に生まれたことを白眼視されることがあるのと同じでな」
「んな事で同じ種族を苛めるのか?変なヤツがいるんだな人間って」
生命体として生みだされたヒムには、そういった醜く複雑な感情が理解できないのだろう。この男の場合は強さの例を出しても強くなれば良いとだけ言って仕舞いだ。そのシンプルさこそがこの男の良い所である。
「一応、姫に報告しておくか?」
「いや。あれは多分そこまで深刻に受け止めてはいない、と言うより慣れていた様子だ。本人も話したところで厄介事が増えるだけと考えているから言わんのだ、捨て置いて構わん」
ラーハルトはそれだけ言うと濡れた服を脱ぎ、引き締まった上半身を惜しげもなく晒してバルコニーに出て行った。日に当たって服を乾かすのだろう。
他者に興味をあまり示さない人間不信の男が彼女を妙に気にかけているのは、戦友の想い人故か。
なにやら胸騒ぎがするのが、気のせいならばいいのだが。
*
(ラーハルト視点)
ヒュンケルが何を考えているかはわからないが、の事は少し理解できた。
あれは、あの女は見かけによらず相当、捻くれている。
それも性質の悪いことに捻くれているところを自覚していない。その証拠として、よくあること、と告げた目に浮かんでいたのは諦観と一種の開き直りだ。妬みや嫉みすら受けるべき正しい評価だと思っているようだった。
そのくせ、自分の容姿が原因と理解していながら、それをやめるどころか磨き上げる。まるでかかって来いと言わんばかりにだ。肌の色が違う自分のように隠せないものではないというのに、もう少し地味な格好をしていれば妬まれる必要も無いのに、優れた外見に執着しているようにすら見える。ただ惚れた男の気を惹くために外見を磨いているのではない。確かに戦いの後から一段と美しくなった気はするが、戦いの以前からという女は身なりに人一倍気をつけていた。
外見に執着するのには何か原因がある。
問題はそれについて、ヒュンケルが恐らく何一つ気づいていない事だ。どう見ても恋で盲目になっている。手合わせでもふわふわと浮いた剣だった。妙な思考に行かなければいいのだが、まだ愚図愚図やっているところを見るとどうにも危なっかしい。
そもそもヒュンケルがさっさと押し倒すなりすればそれで済む話なのだ。あの女もそれを待っているのだから何の問題も無いのに二の足を踏んでばかりでイライラする。あからさまなほど好意を見せる女の行動理由を理解できない鈍感さは下手をすると愛想を尽かされかねないという事もわかっていない。このままではどこぞの馬の骨に横から掻っ攫われる。
そうなる、くらいなら。
「……阿呆らしい」
半乾きの髪に風が当たり、首の後ろがひやりとする。
晴れていた空には気付けば雲がかかり、陽光を遮っていた。
|