(ヒュンケル視点)


言語というものを学問として認識していなかったが、ミストバーンのスパルタ教育は頑強な肉体以外にもそれなりに使える能力を与えてくれていたらしい。アバンと確認した所、オレが理解できる言語は初歩的なものから深く理解できるものまで合わせると5つあった。

共通言語以外に、ドール語と呼ばれる魔族の言語と古代言語を少々、それにパプニカ北部の現地語と魔物の言葉。これまで意識した事もなかったので初めて知ったが、これは磨けば十分に生かせる能力だとアバンは言った。この技能をどうこうするつもりは一切なかったものの、口でアバンに勝てる訳もなく、カールの公式書簡を持って資料に記された集落に向かうことになった。


カール王国としての返答はこうだ。まず、保護を受けたいと主張する範囲は広すぎる。また大きな川の源流となっている湖が含まれており、そこまで範囲に入れると下流の人間の生活に支障が出る。とはいえ、魔王軍の侵攻を受けて謂れのない差別を受けるリスクを犯してまで、公式に話し合いの場を設ける事を望んでくれた事そのものが地上から争いを失くす為の大きな一歩と考え、前向きに関係を築き上げたいため保護する範囲を調整できないか、というものだ。

交渉は苦手だ。人と話すことそのものが得意ではない。憂鬱な気分で、去ってしまった踊り子を想う。はこういった問題の仲介が非常に上手く重宝されていた。師も、ポップも口が上手く頭が切れる。彼らがこの場にいれば何の心配もなく足を向けられただろう。


は、どうしているのだろうか。どこかで元気にしているだろうか。あっという間に半年近くの時が過ぎてしまった。また誰かに妬まれて水などかけられていないだろうか。守ると言ったのに守れなかったオレのような男のことなどとうに忘れて、他の相応しい誰かといるかもしれない。あの美貌に気立てのよい性格ならば男が放っておかないだろう。

最後の夜に彼女が落とした髪飾りは今も手元にある。小さな革の袋に入れたそれを取り出して光に翳すと、銀の装飾が陽光を受けてキラキラと光を放つ。誰かに預ける事もできず、捨てることなど到底不可能で、時折手にとっては未練がましくの笑顔を思い浮かべている。

髪の香りも笑顔も全てが鮮明に思い出せる。胸に残った想いは消えることもなく、忘れるつもりもない。このまま彼女への愛を抱いて、幸せを願って生きていければいい。それが、あと一歩の所で手放してしまった最愛の人へのせめてもの償いだと思っている。


魔族の集落はカールの南側の山脈の中腹にあるらしい。数日かけて道のりを歩き、連なる山々の内の一つに足を踏み入れる。地図によればこの山で間違いない。山の奥深くに向かって獣道のような細い道がうねりながら続いており、草を掻き分けて進むと所々に足跡が見られる。確かにこの周辺に何者かが住んでいる。足跡の中には子供のものもあり、踏まれた草から放たれる青臭い匂いは草が踏まれてさほど時間が経っていない事を物語っている。

書簡にある集落に近づくに連れて周囲の空気が変わっていく。木漏れ日が差し込む木々の美しい景観に似つかわしくない、敵意と警戒心の塊がぶつけられているのを肌で感じる。気付かない振りをしながら道を進むと、ピリピリと刺す様な視線を感じて足を止めた。これ以上進むのは危険かもしれない。足を止め、神経を研ぎ澄ませて様子を伺っていると、一瞬敵意に満ちた視線が減った。

反射的に振り返ろうとしたとき、突如背後から首元にナイフが突きつけられた。咄嗟に腰に指した剣の柄を握る。

「!!」
「何者だ」

問いかけてきたのは男の声だった。音や気配を一切感じさせない足運びは只者ではない。手練れの、戦い方を知っている相手が背後に居る。しかしここで剣を抜いては交渉どころの話ではない。

「――カール国王から書簡を預かってきた」

刃を突きつけられたままで返答すると、相手はゆっくりとナイフを下ろし、オレに武器から手を離してゆっくり振り返るように告げた。言われた通りに腰の剣から手を離して相手を刺激しないように身体を後ろに向ける。

「……まさかお返事をいただけるとはな」

向き合って立っていたのは青い肌に栗色の髪をした魔族の男だった。



(夢主視点)


、と優しく呼びかけてくれる声に振り向けば、家の扉を叩く音がする。扉を開けるときれいな銀髪を靡かせた男が微笑みながら立っている。

ああ、迎えに来てくれたの。

飛びつこうとして目を開けたそこには、くたびれた毛布と汚れた壁があった。

「……サイアク。」

片手で顔を覆って吐き捨てる。
あの夜から5ヶ月。半年近く経っているのに未だに夢を見るなんて、本当にどうかしている。こんなに失恋が後を引いたのは初めてだ。本気だったから余計にダメージが大きいんだろう。最後の恋にしたかったからこそ、砕けた恋の断片が今も胸に刺さって抜けないでいる。忘れると決めたくせに、いつまでもウジウジしている自分に腹が立つ。

昨日の帰り、久しぶりに飲みたくなって、一人でワインを買ってチーズを肴に飲んでそのまま寝てしまったんだった。休みの前日とはいえ馬鹿なことをしてしまった。欠かさず続けている朝のダンスの練習も、今からやれば昼だ。顔もむくんでる。洗面台に水を入れて顔を洗って気持ちを引き締めていると、ふと外に誰かの気配を感じた。窓から顔を出せば初老の男性が家から離れていくところだった。扉を叩いていたのは現実だったらしい。窓から声を張り上げて呼び止める。

「すいませーん!なにか御用でしたかー!?」
「ああ、お嬢さん居たのかい。あんたに手紙が来てるよ」

男性は配達人だった。足早に家の前に戻ってくると、窓越しに手紙を差し出された。

「手紙?」
「パプニカからだ。それじゃ、次があるんで失礼するよ」
「はあ、どうも……」

手紙には差出人が書かれていない。不審に思いながらも封を切って恐る恐る中を見ると、カードが入っているのが見えた。取り出してみれば、たった一言しか書かれていない。

『もう落とすな』

「?なにこれ」

意味がわからない。何のことかと思いもう一度封筒の中を確認すると、茶色い紙に包まれた薄くて軽い3センチほどの包みが入っている。取り出して中を明けて思わず驚きの声が漏れた。

「うわ綺麗……!」

包みの中から出てきたのは青い石がついたピアスだった。5ミリくらいの丸くて青い石の下に、細い棒状の小さな金属がタッセルのようについている。以前のものよりシンプルで上品な、大人っぽい印象のデザインだ。細い金属の装飾がシャラシャラと揺れた。

以前つけていたピアスは死に掛けた時に砕けてしまったので、耳元がずっとフリーで寂しかったのだ。フォーマル用に買った真珠のピアスは高価だから普段つけるわけにはいかないし、新しいピアスを買おうにも、ダンサー修行のために節約しなきゃならなくてなかなか買えないでいた。だから私の両耳のピアスホールはずっと空いたままだった。

手紙の差出人で思い当たるのは一人しかいない。
ラーハルト。
私にピアスを贈って、もう落とすな、なんて言えるのは彼しかいない。

最初に私と彼を繋いだのもピアスだった。私の落としたピアスの片方を彼が拾ってくれて、以来再会するまでは身につけているだけで彼に見守られているような気持ちでいた。これは彼が待っているという意思表示だと思ってもいいだろうか。私のことを、想ってくれているのだと。

正直嬉しい。
遠くに居る人からこんなにもダイレクトに好意を感じたことなんて初めてでドキドキする。

でも、これ、つけろってか。
つけたら完全にヒュンケルを忘れたことになりそうなんだけど。情けないことにラーハルトと会ってから一月も経つのにいまだに未練たらたらでアミュレットもつけっぱなしのくせして、別の男性から貰ったアクセサリーをつけるのはどうなんだ。キレイだけど愛が重いです。どうしろってんだよ。彼氏でもない男(しかも本命の親友)に贈られた装飾品って。事情を知らない人から見ると私はとんだビッチだ。

膝を抱えてベッドに座り、シーツの上に置いたピアスを見つめる。彼はどんな顔でこれを選んだんだろう。
私のためにわざわざ?なにそれキュンキュンする。しかもツボだ、このデザイン。つけたい。

「えええ……やばいって……!」

こんなのときめかない訳ないじゃないか。なんなの彼、女とか興味ないって顔してたくせに。付き合ってられんとか言ってたくせに、惚れたら王道に一途な人だったのか。ああロンさん、男の人って人間魔族関係なく基本的にロマンチストなんだね。どうしようホントに好きになっちゃいそう。

ヒュンケル。私はもうあんたを忘れていいかな。
傍にいなくてもこんなに心を温めてくれる人なら、それがあんたの大切な友人でも好きになっていい?
せめてあの日あんたが私を愛していないと言葉をくれてたら、もっと簡単に気持ちに区切りがつけられたのに。



(ラーハルト視点)


ヒール、という差出人から届いた手紙には、抱き締めた女の香りが残っていた。とはいえ魔族の血の入ったオレでなければ気付かないほどに微かなものだ。どうやら本気でゼロからやっているらしい。“ヒール”はが考えた偽名というわけだ。これで差出人が誰なのかを追及されても傍目にはわからないだろう。しかし読んでいる時の顔を見られたいとは思わないので人目につかない場所に移動してから改めて手紙の内容を確認する。

今は踊りに集中したいから誰かと恋仲になる事は考えられない。
ピアスはとても気に入った。
好意を持ってくれていたことは嬉しいし感謝もしている。
ただ気持ちが切り替わってくれないので、まだ今のままの関係を維持したい。

の手紙の内容は要約するとそのようなものだった。要するに遠回しに振られたわけだが、言い換えれば気持ちが切り替わりさえすればいいのだ。人より長く生きる身であれど、あれほどの女にはおそらく出会えないだろう。自分の生きた世界を失くして尚、折れることなく存在を証明するために夢を追って、恋も栄誉も捨てて一人で世界に挑みかかっている女などいない。

「…タフな女だ」

彼女がパプニカを飛び出してから既に5ヶ月が経ち、周囲も行方を追うことをやめた。自分の人生を歩んでいる人間の邪魔をするのは、例え彼女がどれほど有能であろうとも無粋だと女王が結論付けたためだ。賢明な判断と言えよう。という女が一度心を決めたらやりきるまで止まらないということは既に理解できている。

手紙を懐に仕舞い込んで主の部屋に足を向けると、小さな主が机に向かっていた顔を上げて声をかけてきた。

「どうかなさいましたか?」
「うん。ちょっと頼みがあってさ」

曰く、カールで魔族の集落がある地域を保護する話があり、参考に魔族の血が入っている自分から話を聞きたいと言う。参考、というのは甚だイラつく言葉だ。つまり過去にどういった嫌がらせを人間から受けていたのかを話せという事だろう。触れられたくない過去だということくらいわからんのかと怒りすら覚えるが、感情的な理由で頼みを断るのは無作法だという事くらいは心得ている。

「人間も魔族もなるべく上手く付き合っていけるようにするんだって。だから協力してもらえると助かるんだ」
「しかしダイ様。失礼ながら私は人間の国政に関わる事は一切手を触れられないことになっております故」
「そこはトクメイ?にするから平気なんだって」
「はあ…」

どうにか上手く断れないかと思案していると、小さな主は苦笑して漏らした。

「まあでも……おれとしては、ラーハルトが嫌なら行かなくていいと思ってるんだ」
「…?」
「だってイヤな事を思い出させるのはやっぱり…ね」

苦々しく笑って見せた少年の目は不快な思い出を打ち消すように閉じられた。バラン様に起きたような事がこの主の身にも起きたのだと否応なく理解する。

大魔王を倒したのが人間ではなく竜の騎士であるにもかかわらず、人魔が共存するのは未だに理想に過ぎない。しかし、この小さな主はあえてその道に進もうとしているのだ。ならば直属の部下たる自分が出来ることであれば受けるべきではないのか。否、受けるべきなのだ。それで敬愛する主が残した、ただ一人の息子であり、同じ男を父と呼ぶ少年が歩む道が少しでも楽になるのであれば。

「……いえ。承知いたしました」
「えっ?」
「名を公表しないというのでしたら問題ありません」
「けど……本当にいいのかい?イヤならイヤだって言っていいんだよ」
「構いません」

頷いてみせると、小さな主は安堵したように胸を撫で下ろして話を続けた。

「……それじゃ、カールには明後日着くように頼むね。終わったら自由にしていいってレオナが言ってたから、2、3日ゆっくり過ごしていいってさ」
「承知いたしました、ダイ様」

気は進まない。とうの昔に諦めた人魔共存は、実現するかどうかは定かではなく、正直な意見を言えば実現不可能だと考えてもいる。主さえ居れば戦士の本分を全うできる。他者との繋がりは最低限で良いと思ってもいるし、この考え方を変えるつもりもない。

しかし胸糞の悪い思い出話の一つや二つで主の心に平穏が齎されるのであればこそ、個人的な感情は抜きにして協力するのが正しいのだ。



(ヒュンケル視点)


カール城の再建は半分ほど終了した。パプニカやベンガーナとは違い、この城は灰色のレンガで出来ている。強力な騎士団で有名なカールらしい厳格な風情を感じさせる。尤も調度品などは未だに揃わず、無駄な空間が多い。本来ならば盾や剣、剥製などを飾る部分に何も掛けられていないからだ。今のカールに贅沢品を揃える余裕は一切ない。ドラゴンの攻撃はパプニカ以上に激しく、全てを瓦礫の山にしてしまった。

アバンに巻き込まれてから3ヶ月、魔族の集落の保護区域に関する案件で長く足止めを食らっている。集落に訪れてカールの主張を話したところ、長らしき魔族の男は湖の独占をしない代わりに保護区域を集落全体のものとして私有地化できないかと言い出した。その場で答えられるはずもなく、話をカール城に持ち帰ってアバンに彼らの言い分を伝えた所、話を知った官僚達から避難が殺到し、審議が止まった。

結局その後、数回の交渉に赴いて私有地化以外の解決策を模索したが話が進まないため、実際に彼らの存在を知った人間がどのような攻撃性を向けるのか、という部分を深く知る必要があるとして、召喚されたのが友人であり人間に嫌悪感を抱いて生きてきた男だった。アバンからレオナとダイを通してラーハルトに打診したと聞いた時は絶対に来ないと思った。どう考えても、あの気難しい男が思い出したくない過去の話などしないと考えていたからだ。

「……ここで何をしている」

アバンの執務室で久しぶりに顔を合わせた戦友は、端のテーブルで書類を相手に格闘しているオレの姿を見つけると訝しげに眉根を寄せた。

「ヒマそうだったので手伝ってもらっているんです。彼らの言葉がわかるというのでね」
「誤解されたくないので言うがヒマでやっているわけではない。出来ればさっさとおさらばしたいのだ」
「ダメダメ、これだけ最後までやってからですよ〜」

アバンは腹が立つほど爽やかな笑顔で数十枚の書類をオレのテーブルに積み上げて自分の席に戻った。

「まだ増えるのか……!」
「しょうがないでしょ、資料読めないんですもん」

口ではそう言うものの、この師は既にドール語を理解し始めていると思われる。何故ならオレが共通言語に訳する際におおよその分類が出来ているからだ。分類が出来ている、という事は概要か、少なくとも資料の表題だけは理解できているという事だ。昔からこういう、わかっているのかいないのかわからないような顔をして人にものをやらせようとするところがある。15年も経ったのに変わっていて欲しいところは変わっていない。メガネが増えただけで、腹立たしいことこの上ない。

ラーハルトから具体的に人間から受けた仕打ちを聞きだすのはアバンと書記官で、話は別室で行われた。怒らせると厄介な男だが、ダイに面倒を掛けさせるようなことはしない。問題は書記官が余計な事を言わないか、だが、アバンが同席するなら無作法はないだろう。

数時間後、書類の処理が終わりすっかり疲れきった目を抑えて休んでいると、アバンがラーハルトを伴って戻ってきた。話が終わったようだ。半魔の男の眉間には不快だと言わんばかりの皺が深く刻まれている。

「貴重なお話を聞く事ができました。不愉快な思いをさせてしまった事について、お詫びを申し上げます」
「……二度と御免だ」

半魔の友人は不機嫌を隠すこともせず吐き捨てると、部屋を出る際にこちらを振り向き舌打ちをして言い放った。

「付き合え」

嫌とは言わせん、と真っ直ぐに伸びた背が語っていた。