(ヒュンケル視点)


滞在している宿は1階が酒場になっている。松明とランプで照らされた店内には数人の旅人がいるだけで煩くわめく客もおらず静かだ。付き合えと言われ、ならばと自分が滞在している宿に連れてきてカウンター席に並んで酒を飲んでいる。

「……面倒をかけさせて悪かった」
「フン……ただの思い出話だ。胸糞が悪くなるだけのな」
「すまん」
「謝罪はいらん。解決させろ。何度も言うが二度目は無い」

グラスの中身が半分ほどに減った頃、ラーハルトが視線を前に向けたまま言った。

「……あの女はロモスに居る」
が……!?」
「手のかかる、面倒な女だ。泣き止ませるのに苦労した」

こちらを見ずに苦笑した友人の表情は苛立っている様子はなく、むしろ自慢げにすら聞こえるのは思い違いだろうか。当たって欲しくない予想が当たってしまった、或いはそうなってしまったのだと思わざるを得ない。

「泣かせたのか」
「原因はお前だ」
「……そう、か。それは、その」
「“すまん”か?勘違いするな。お前のものじゃない」
「!」
「掴むつもりが無いならば諦めろ」

吐き捨てるように切り返してきたラーハルトの言葉に声が出てこない。が涙した原因が自分だというだけで、まだ彼女の心が向いているのだと勝手に思い込んでいた。しかしその場に居合わせたこの男が彼女を慰めたのだとすれば、もしも、その動機が純粋な友情ではないとすれば。
青い肌の友人はグラスの中身を飲み干すと、カウンターにグラスを強めに置いてはっきりと告げた。

「――オレが貰い受ける」
「ラーハルト……!」

息を呑む。やはり、という思いと同時に湧き上がる、やめろ、と叫びたくなる衝動。グラスを掴む手に力が篭る。琥珀色の液体が氷を浮かべて揺れている。予想していた事だった。友人の幸せを願うべきだ、身を引くべきだ、自分は彼女に相応しい男ではない。理解しているはずの事を受け止められない。

「お前に止める権利は無いぞ。ヒュンケル」
「っ……わかっている……」

言われるまでもなく頭では理解しているのに心の中は嵐が吹き荒れている。

「……話はそれだけだ」

ラーハルトはそれだけ言い残してグラスの中身を煽り、代金を置いて店を出た。
湧き上がる苛立ちをぶつけることも出来ず、強い酒を頼んで一気に煽り、続けざまに同じ酒を注文すると店主が呆れた様子で酒を出した。


気付いていた。見ぬ振りをしていただけだ。人間を未だに嫌い、近寄れば言葉の刃で切り付けさえするような男が、にだけは当たりが弱かった。ラーハルトを最も近い存在だと感じているオレからすれば、あの男のに対する態度は好意的ですらあった。その割りにオレには早くしろなどと急かしてきた理由は、そうする事で己の感情を殺すためだ。

届かぬように、誰かのものになってしまえば無意味な期待をせずに済む。あの夜も、あの男はオレの質問の意図を理解していたのだろう。同じ立場なら似たようなことをしたはずだ。そうしなければ抑えられないほどに愛していればこそ。だがオレが手を離してしまった以上、あの男は誰に遠慮する必要も無くなった。

「……っ、」

。誰よりも愛しい女性の名を口にしようとして飲み込んだ。言葉にすれば息ができなくなるような気がする。彼女を守る男になりたいと願った。しかし傍を離れることを選んだのは、自分の罪の為に彼女の夢を壊しかねないからだ。泣かせてしまう事も覚悟して離れた。そのくせ、泣かせてしまった事を実際に耳にすれば、傍に居てやれないことが悔やまれてならない。

ラーハルトは何を話したのだろう。去り際の言葉をそのまま受け取れば、あの男も彼女に想いを伝えたか、これから伝えるつもりだと考えるべきだ。男が、愛する女性が目の前で泣く姿を黙って見ているはすがない。触れたのだろうか。あの男は、彼女に。

は、あの男を愛するのだろうか。
こんな自分を好きだと、本気だと言ってくれた女性だった。
同じ想いだった。
グラスの中身を一気に煽って流し込む。
酒が喉を焼いていく。

忘れられるわけがない。

最後の口付けは今でもはっきりと思い出せるほどに切なく悲しいものだった。
涙を堪えるように微笑んだ彼女の瞳は強烈に焼きついている。

ほんの一時でも甘い夢を見られた、それだけで良かったはずだ。戦いの中での幻のような時間と、手を繋いで街を歩いた美しい思い出は、罪人の自分には贅沢すぎる。これ以上はただの身勝手な欲だ。彼女の未来を壊していい理由になどならない。例えがオレを赦そうとも、罪を背負った男が隣にいれば周囲は彼女まで咎人のように扱いかねない。

それでもまだ、誰にも渡したくない。誰の腕の中にも行かないでほしい。手を放した分際で言えるはずもないことばかり思う。もう一杯酒を頼むと、店主がカウンター越しに飲みすぎだと言わんばかりの顔でグラスを置いた。中身を再び喉に流し込む。やけくそになっている自覚はあるが、止められない。髪飾りを取り出して強く握る。

どこにいても笑っていてくれさえすればいいなんて嘘だ。
ずっと隣で笑っていてほしかった。
叶うなら生涯を共にしたいとすら考えていた。
しかしそれはあくまで、叶うはずのない夢だ。

忘れたくない。
ロモスにいる、
会えないならばせめて、夢の中でいい。

もう一度―――



「……ヒュンケル……?」



ああ。
逢いにきて、くれたのか。



(夢主視点)


何人かの富豪がダンス講師と懇意で、毎年援助のために生徒の踊りを観たがるのだという。それで育成コースの残り半年は客の前での実践が2回ある。最初はカール。後はロモスの西海岸だ。それぞれの日程は2週間おき、各国で2泊3日滞在して学院に戻るというもの。インターンみたいなもんだ。残り14人まで減った生徒を連れてカールにやってきた講師は、宿は各自で取るように言い残して富豪の屋敷に一人で行ってしまった。どうも講師はその富豪とやらの元愛人だとか。そりゃあそんなコネでもなきゃ、援助なんてないよね。

集合は明日の朝、現地で。それまでは自由時間と言われたので、仲良くなったリュカと適当に素泊まりの宿を取り、散策していたらあっという間に日が暮れた。

リュカは明日の緊張感から食欲が無くなって先に部屋に戻ってしまったので、一人で食事のために近くの宿の食堂に入ったら、忘れたはずの男がいた。

思わず声をかけた瞬間、目の前で倒れられた。

パプニカに置いてきたヒュンケルが何故カールにいるのか。経緯は不明だけど、ここはアバンさんがいるから、もしかしたら彼に用があって来ていたのかもしれない。酔い潰れているようなので詳細はわからない。

店の主人に手伝ってもらって彼の部屋を聞き、意識を飛ばしている銀髪の男をベッドに運んでもらった。水を汲んだ洗面器とタオルを借りて、介抱してから20分ほど経つ。どうもかなり強い酒を飲んでいたらしい。私が知る限り彼はお酒に弱いわけではなかったはずだけど、なに無茶してるんだか。額に濡らしてヒャドで凍らせたタオルを乗せてやり、サラサラした銀髪を撫でる。相変わらず放っておけない、子供みたいな人だ。

「…ほんと、困った男」

酒気を漂わせながら眠る彼を見て、ふとその手が何かを握り締めているのに気付いた。
寝惚けて顔にでも落として怪我をしたらいけないと思い、起こさないように指を外して、手の中のものを目にして声を失った。

彼が握り締めていたのは、最後の夜に私が身に着けていた銀の髪飾り。
キスした時にはずみで床に落ちたものだ。どうして彼がこんなものを持っているんだろう。拾ったにしても、マリンとかエイミちゃんとかレオナとか、パプニカには女物の髪飾りを預ける相手ならいくらでもいるのに。

私は彼にさよならを告げた。二度と会うつもりはなかった。勇者の仲間として、有事の際に顔を合わせるようなことでもない限り再会なんて望まなかった。こんな偶然でもなければ、彼もそのつもりでいたはずだ。捨てた女の髪飾りなんか、いつまでも持っていたってどうにもならない。

それなのに、どうして。

「……?」
「!」

名前を呼ばれてハッとヒュンケルの顔を見る。薄く開いた紫の瞳がぼんやりとこちらを見て、甘い微笑を浮かべた。一瞬胸がどきりとしたけれど、彼がこんな風に誰かに笑いかけることなんて有り得ない。酔っているに違いない。眠そうな声だし、意識が朦朧としているのかもしれない。それなら眠っていてほしい。髪飾りを目にした今、まともに話なんてできそうにない。

そっと手を伸ばし、夢現の男の頬を優しく撫でると、ヒュンケルは幸せそうに目を閉じて囁いた。

「…夢でもいい……そばに…いてくれ……」
「……っ……ばかじゃ、ないの…」

切ない声に涙が出そうになって手を引っ込めた。
傍にいてなんて、これまで一言も言わなかったくせに。
あの時だって、行くな、の一言も出てこなかったくせに。
私がどんな気持ちであんたの手をすり抜けたと思ってるんだ。
ようやく気持ちが落ち着いてきたのに、そんな声で、そんな顔して、なんて酷いこと言うの。

これ以上ここにいたら離れられなくなる。間違いを犯す前にこの部屋を出て行かなければ。

「――ラリホー…」

眠りの呪文なんて平時の彼なら絶対に効かないだろうけど酩酊状態の今なら一発だろう。予想通り、呪文を唱えてすぐに紫の瞳が瞼で隠れて、静かな寝息が聞こえてきた。

これでいい。
夢だと思ったまま眠っていて。

泣きそうになるのを堪えて、タオルをもう一度ヒャドで冷やして眠りに落ちたヒュンケルの額に乗せ、静かにドアを開けて部屋を出る。ドアを閉め、立ち止まって深く息を吸って、吐いた。

夢でもいいって、なんだそれ。
手を放したくせに、自分には無理だって勝手に結論付けたんだろうに。
私はちゃんと伝えたはずだ。
二人で乗り越えて行こうって、本気だって。
これじゃあ物分りのいい女の顔をして去った自分がバカみたいじゃないか。

どうして今、こんなところで逢ってしまったんだろう。
食事ができる所なら他にもあったのに、何故この宿に足を向けてしまったんだろう。



『忘れさせてやる』



ラーハルトの言葉が蘇る。ヒュンケルとはまた違った、低い男の人の声。
あの声に甘えていれば良かったのか。あの胸に飛び込んで、惨めでもいいから彼を愛していれば、こんな気持ちにならずに済んだのか。ヒュンケルへの想いは時が過ぎればいつか消えて忘れられるはずだった。誰を愛するにしても、まずは自分に自信をつけて、ヒュンケルへの気持ちを整理して、せめてラーハルトの誇りを傷つけない女になるべきだと思った。けれどまた胸の中がぐちゃぐちゃだ。

逃げるように宿を出て、まだ開いていた別の店でパンとチーズを手早く買い込み、リュカの待つ宿に足を進める。明日は富豪のサロンで踊りを披露しなければいけない。過去の失恋の傷で泣いてる暇なんて私には無いんだ。部屋で食事を取って、寝て、明日には万全の状態で富豪とやらの前で踊るんだ。暗い道を真っ直ぐに歩いて宿に向かう。

大丈夫、大丈夫。
私はもう泣かない。
強い女になるんだから。


強い女に、


「…なるんだから…!」



(ヒュンケル視点)


夢の中で、の温かい手が頬を撫でた。幾度もこの身体を癒してくれた手だ。髪が少し伸びたように見える。相変わらず綺麗だが、少し痩せたような気がする。傍にいてほしいと告げたら、は悲しそうに瞳を揺らして、温かい掌は離れてしまった。

何故そんなに泣きそうな顔をするんだ。
夢の中ですら傍にいることができないのか。
いや、夢の中で逢えただけでも幸せだ。
もう二度と会えないのだから。


心地良い眠気に身を任せて目を閉じて、朝の光の眩しさで再び目を開けた。頭を動かすと酷く痛む。頭を押さえながら身を起こすと、宿の部屋のベッドにいた。どうやって部屋に戻ったのか全く記憶が無い。確か昨夜は下の食堂で久しぶりにラーハルトと酒を飲み、あの男がを、貰うと言って。

「………?」

ラーハルトが出て行った後の記憶がぼやけている。が居た気がするが、それは夢のはずだ。彼女はロモスに居るとラーハルトが言っていた。その所為で彼女の夢を見たのだ。吐き気を催してベッドに手を付くと、湿ったものが手のひらの下にある。手を退けて持ち上げてみれば、濡らして折りたたまれたタオルだった。何故こんなものがベッドにあるのだろう。

頭痛を堪えてふらつきながら階下に降りると、宿の主人が信じられない言葉を口にした。

「おう、兄さん大丈夫かい?カノジョは?」
「彼女…?」
「またまたぁ、あの黒髪の別嬪だよ。あんたが飲みすぎて倒れちまって、呼びかけても起きないんで、わざわざ介抱してくれたんじゃねえか」
「介……抱……!?」
「そうだよ?なんだ覚えてないのかい、あんな別嬪連れ込んどいて。贅沢だねえ兄さん」

一気に血の気が引いていく。

思い出した。

昨夜、倒れる前に目にした誰よりも愛しい人の姿、は確かにここにいた。ロモスにいるはずだが、確かにいたのだ。酔った勢いで何か言った気がするが全く思い出せない、とんでもない事を言ってしまったような気がする。しかも無様な醜態を見られた上に、介抱されておいて礼の一つも言っていない。

!う、」

走り出そうとするものの頭痛と吐き気でろくに歩けない。彼女がいつ帰ったのかすらも覚えていない。通りには既に多くの人が行き来しており、想う相手の姿はどこにも無かった。夜中の内に出て行ってしまったのだろうか。だとすれば行き先などわかるはずがない。

宿に向けて踵を返し、よろめきながら滞在している部屋に戻ると再びベッドに身を預けた。情けなすぎる。
そもそも、追いかけたところで何を話すというのだ。介抱してくれた礼を言った後は何も言えなくなる。彼女も話をする気が無かったから出て行ったのだろう。当然だ。守るなどと言っておいて傍にいることすら出来なかった男など愛想を尽かしたに決まっている。

「……はっ…」

あほらしい。は去ったのだ。二度とあの日々が戻る事はない。彼女はあの男に慰められて、実らなかった想いを捨てたのだろう。だからこそ、昨夜はおそらく友人として声をかけてくれただけだ。愛せもしない人がまだ自分を想ってくれているなどと自惚れるべきではない。介抱してくれたからといって、関係が戻るわけがない。

枕元に投げ出されている髪飾りを手に取って指で表面をなぞる。これも見られたのだろうか。どうせならば持ち去ってくれれば良かったのだ。そうすれば彼女を思い出すものが傍から消える。いっそ捨ててしまえ。そうだ窓から投げ捨てればいい。いい加減に未練を断ち切るべきだ。

ふらつく頭を起こしてベッドの脇にある窓を開ける。晴れた朝の空気が部屋に充満する酒気を薄め、白いカーテンをはためかせた。髪飾りを握り締めて、遠くに飛ぶように腕を高く振り上げて。



『さよなら』



悲しげな微笑が脳裏に蘇り、腕を下ろして髪飾りを強く握る。

「…ッ……!」

捨てられない。

彼女にも髪飾りにも非はない。
一方的に傷つけて泣かせたくせに、楽になるために八つ当たりをしようとしただけだ。

離れてようやく理解した。彼女の愛を受け入れなかったくせに、傷つけたくせに、オレはまだの愛を求めている。戻らない日々を思い出しては傍に居られない理由を並べて自分を正当化して、遠くから見守るのだと言い聞かせて満足していただけだ。

もっと早くに出会っていれば、罪を犯す前に過ちに気付けただろうか。
彼女の傍に自信を持って立っていられただろうか。
頬を熱いものが伝い落ち、白いシーツに丸い染みを作る。
窓から見える空は青く、嫌味なほどに晴れていた。