(夢主視点)


ロモス北部の港に着いてから馬車で丸1日。踊り子見習い達を乗せた4つの馬車が学院に到着する頃には、日が沈みかけていた。麓の愛しきボ ロ家に荷物を背負ってのんびりと向かっていると、家の壁に腕を組んで凭れかかっている人影があった。夕日に照らされた見覚えがある格好に 頭を抱えたくなる。いきなりきたか。

「本当、いいタイミングしてる」

家の前で足を止めて声をかけると、人影はフードを取ってこちらを振り向いた。顕になった青い肌が夕日に照らされて輪郭を際立たせる。互い に言葉もなく向き合って数秒。真っ直ぐに見つめ返してくる男の低い声が夕暮れの静寂を破った。

「……話がある」



炙って溶かしたチーズを軽くトーストしたパンに乗せ、庭に生っているオレンジ3つ切って、塩漬け肉とタマネギをスープにして。帰ってきた ばかりでこんなものくらいしか出せないけれど、と言えば、ラーハルトは何も言わずに出されたものに手をつけた。文句が出ないならまずくな い、という解釈で良いのはロンさんで慣れたので、こちらも何も言わない。

来客用の椅子はないから、テーブルをベッドに寄せて、小さな木の椅子に私が座り、ラーハルトはベッドを椅子代わりにしている。柔らかく なったタマネギをスープから救い上げて口に運ぶ。暫く咀嚼する音だけが、ランプと暖炉の光で照らされた狭い部屋に響いていた。お腹が満た されて一息ついて、コーヒーでも入れようと立ち上がろうとして、じっと見つめてくる視線に気付く。

「……なに?」
「いや……少し痩せたか」
「授業がどんどんハードになっててね。食べても消費しちゃうんだ。あ、お茶飲む?」
「またぶちまけるつもりか」
「やらないって」

暖炉の前に置いてある高さ30センチくらいの物干し台のような器具は調理用のもので、竿のような鉄串に、やかんや鍋を引っ掛けて使う。お 湯は既に沸いている。キャビネットから茶葉を探していると、テーブルについたままのラーハルトが口を開いた。

「ヒュンケルに会った」
「!……そう」
「何をしているか、話した方がいいか」
「……ううん」

キャビネットから取り出した茶葉をティーポットに入れて、熱い湯を注いでテーブルに運ぶ。美味しいお茶の淹れ方なんていちいちやってられ るほどの気力はない。カップとお湯を入れたティーポットをテーブルに置いて、再び沈黙が戻った。

熱くなったティーポットを火傷しないように指で突いて、じっと待つ。何かをしながら話をしたい気分なのだ。ラーハルトも話を続けなかっ た。数分経ってポットの中身をカップに注ぎながら口を開く。

「私もね……カールでヒュンケルに逢った」
「なに?」

並んだカップのうち一つをラーハルトの前に置いて、自分も座りなおして話を続ける。

「……あいつ、寝言かなんかわかんないけど、私の名前呼んでさ」

持ち上げたカップは熱く、中身はまだ飲めそうにない。
揺れる琥珀色の液体を見つめて言葉を吐き捨てた。

「傍にいてくれ、だって」
「……!」
「バカだよね。もっと早く言えっての」

お茶を飲むのを諦めて、視線を下に落として溜息をついた。真っ直ぐにぶつけられる視線を受け止める勇気が出なくて、視線をカップにだけ向 けていた。黙り込んだ私に、ラーハルトが問いかける。

「……どうするつもりだ」
「どうもしない……っていうか、あいつ多分私に逢ったこと覚えてないんじゃないかな。相当酔ってて、顔見た瞬間倒れちゃったし。濡れたタ オルだけ頭に乗せてラリホーで眠らせて置いてきたもの」

銀髪の戦士の蕩けるような微笑を思い出し、目を閉じて思い出したものを掻き消す。見捨てた女の塞ぎかけた傷を開くだけ開いて眠りに落ちた 酷い男だ。いい夢見たかな。一発ぶん殴ってやれば良かった。

ちょうど良く温くなったお茶を一口飲んで息をつくと、ラーハルトの手がカップを置いた手に重なった。強く引かれて抱き締められても、逃げ たいとは思わなかった。人と変わらない肌の温度が心地いい。目を閉じて熱く硬い胸板に額を押し付ける。この胸の中は、やっぱり不思議と安 心する。

「――変なかんじ」
「……?」
「ラーハルトにこうされると、すごくほっとする。ドキドキもするけど、なんでかな。落ち着いちゃう」

顔にかかった髪を退けながら独り言みたいに呟いたら、自然とベッドに倒された。けれど数ヶ月前のように腕を拘束されることはない。だって 私は暴れていないし、暴れるつもりもないから。両手を顔の両脇について覆いかぶさるようにされると、この先に起こる事に対する覚悟ができ た。見下ろしてくる視線と見上げる視線が熱を孕んで絡み合う。

「……後戻りできんぞ」

低い声の問いかけに苦笑する。
戦地なら迷わず進むくせに恋をすると土壇場で一瞬足を止めてしまうのは、ラーハルトもヒュンケルも、隣にいる誰かを自分の所為で傷つける のが怖いからだ。けれど覚悟が無ければ、今こうしていないことくらい気づいてほしい。

人間に裏切られて人間を憎んだ彼は、愛に裏切られて愛を捨てようとした私と似ている気がする。本心では欲していながら、距離を置いて目を 逸らそうとして。対象が違っても本質的には同じだ。傷の舐め合いにならないか不安が無いわけじゃない。けれど群から逸れた者が自分と似た 者を見つけたのだと考えれば、逸れ者は逸れ者同士で、一つしかない互いを好きになって、愛せる気がする。

手を伸ばして、少しざらついた頬に触れた。触れた手はそのまま首を滑って肩口を這い、離れた。ラーハルトの背がぴくりと微かに跳ねた。顔 には出さないけれど緊張しているのが伝わってきて、等身大の彼に触れられたことがなんだか嬉しく感じる。

「戻る気なんかないくせに」
「……
「はしたないかな、私……今、すごく、あんたがいいって思ってる。帰って欲しくない」

正直な言葉だけをぶつければ、見下ろしてくる視線の熱に雄が宿る。獲物に食らいつこうとする、野生の獣のような眼に射抜かれて下腹部が疼 く。

人間は人間を愛さなければいけないなんて決めたのは誰でもない、世界中のマジョリティがさも当然とばかりにルールの顔をしているだけ。な らその分厚い面の皮に傷をつけるくらい構わないじゃないか。普通の人間かどうかすら判らない女と、人間にも魔族にもなれなかった男、悪く ない組み合わせだ。元より世界に喧嘩を売ってやるつもりでこの世界に生きると決めた。

死んだ恋を見つめてどこにも行けずに傷を増やすくらいなら、新しい恋に挑戦して茨の道を進むほうがいい。

迷いはない。

戦場で鋭く敵を見据えていた瞳が、ちりちりと焼け付きそうな熱を含んで見つめてくる。焼き尽くして欲しい。燃え残った恋の残骸ごと灰に変 えてくれと願えば、この男なら叶えてくれる。彼がいい。見つめ合っていた瞳を閉じれば、どちらからともなく唇が重ねられた。熱が、唇の上 で静かに解けていく。

「塗り潰してくれる……?」
「甘い事を」

キスの後、囁き声の問答を自信に満ちた男の声が終わらせた。

「粉々に砕いてやる。余所見をする気も起きぬほど」








暖炉の火は消えかけて、ランプの小さな明かりと月明かりが狭い部屋を照らしている。ブランケットを巻いただけの格好でベッドを下りて、 テーブルの上ですっかり冷えてしまっていたお茶を飲んだ。喉が枯れた。ご近所がいないから開放的だったというのも、ある。水差しからカッ プに水を注いでもう一杯飲み干すと、水分不足で乾ききった喉が楽になった。

「……上書きされちゃった。」
「望んだのはお前だ」
「ん。間違いだなんて思ってないから、安心して」

ラーハルトの手を取った事を後悔はしていない。今の自分が自信を持って言えることはそれだけだ。

全力で恋をした相手に捕まえて貰えなかったことが悔しくて辛くて、涙を燃料に変えて踊りへの情熱に転換してきたつもりだった。けれど踊っ ても踊っても、愛してもらいたかったという願いだけが暴走して心を雁字搦めにした。未練たらしい自分をがむしゃらに見ない振りをし続けて も、どこにも進めないのだと知っていながら、現実を見るのが怖くて強がって、とうに死んだ恋の残骸を手放せずに執着していた。

動けなくなるまで凝り固まった気持ちを切り裂いて灰にして、もういいのだと自由にしてくれたのは、愛した人の剣ではなく、研ぎ澄まされた 槍だった。燃え残った恋の熱で爛れて瘡蓋だらけになってしまった心を優しく引っ張り上げてくれたのは、吐き出した弱音を受け止めて頭を撫 でてくれた青い肌の手だ。

「水飲む?」
「……さっさと持ってこい。女が身体を冷やすな」
「優しい!惚れちゃう」
「阿呆か」

水を注いだカップを手渡すと、ラーハルトは中身を一気に飲み干して移動させたままのテーブルに空になったカップを置いた。その目が早く ベッドに入れと言っているので、遠慮なく差し延べられた腕の中に飛び込む。小さなベッドでは抱き合う以外に二人で寝る方法は無い。

「ふふ、狭っ」
「さっさと引っ越せ。ボロい上に狭いのではおちおち眠ってもいられん」
「んー?卒業したらね」

文句を言う口の悪い恋人の指は私の頭を優しく撫でている。言っている事とやっている事がちぐはぐでなんだか可愛く思えてしまう。甘えさせ てくれる腕が愛しい。この世界に来る前の、口で上手い事言って荒く扱ってくるようなロクでもない男に引っかかった過去を消したくなる。口 ではキツイ事言いながら行動が優しいって、これがギャップ萌えってやつか。自分より強い男性に甘えるのって意外に悪くないかもしれない。 これまで自分がいかに男を甘やかしてきたのかを思い知らされた。

「――卒業する時ね、ベンガーナで大きな大会に出場するんだ。まだ決定してないけど、多分いける」

胸に顔を埋めたままで語り始めた私の頭をあやすように撫でてくる手が心地いい。

「優勝したら攫いに来てくれない?」
「……気が向いたらな」

穏やかな声で囁いて頬にキスを落としてくれる。本当に言葉と行動がばらばらだ。それでも、口ばっかりの男なんかよりこっちの方がいいに決 まってる。強く抱きこんでくる腕の温かさに眠くなってきて瞼が閉じそうになる。もっと声を聞いていたくて身を捩ると、ラーハルトの堅い掌 に目を覆われた。

「眠れ。
「もうちょっとー……」
「甘やかすのは今夜までだ」
「意地悪……」

襲いくる眠気と掌の温かさに抗えなくて、瞼は完全に下りてしまった。
穏やかな声が何かを囁いていた気がするけれど、包み込んでくる温もりの心地良さには勝てず、意識はそこで途切れた。



(ラーハルト視点)


「……本当に、手のかかる女だ」

幼子のように安らかに眠る女の横顔を見つめる。寝台で抱き締めておいて言い訳がましいが、今夜中に何もかもを貰うつもりはなかった。まだ 彼女の心が変わっていないものだと考えていたからだ。しかしどうやら待っていた間にの心は喜ばしい方へと変わったらしい。似合わ ぬ贈り物までして、3ヶ月近くも辛抱強く待った甲斐はあった、というわけだ。

それにしても塗り潰せとは、なかなかの殺し文句を出してきたものだ。煽られて、我慢続きだった理性は木っ端微塵に吹き飛んだ。均整の取れ た女の肢体と芳しい甘い匂いに誘われて貪るように抱いた。寝息を立てる女の睫毛は長く、緩やかに波打つ黒髪が胸元を擽っている。

柔らかい頬を指で撫でる。しっとりとした肌が心地良い。

一度は自分の死に目を看取った女を愛するというのは実に数奇な話だ。死の間際に掌に感じた彼女のぬくもりと涙の熱は、長年オレの心を覆っ ていた分厚い氷を溶かしてしまった。

蘇った後再会した時、状況が状況でなければ聞きたいことが山ほどあった。何故採石に来なくなったのか、何故ヒュンケルと共に居たのか。何 故、オレの生還を喜ぶのか。かつて死ぬなと言って泣いた女は、歓喜の涙を流しながら抱きついてきた。自覚していなかった微かな感情に見ぬ 振りをした瞬間だった。

恋を失っても折れることなく自分の目指す道を自分の意思で歩んだ女。過去を振り払おうとして前だけを見つめて進む横顔が何よりも美しくて 一層、惚れた。一筋縄では行かない、眼差しの奥にある意志の強さが男の独占欲を掻き立てる事には気付いていないらしかった。何年かかろう と手に入れたいと決意させる最高の女がそこにいた。主以外で初めて、守りたい者ができた。

それが今、この腕の中に居る。かつてヒュンケルを全力で愛し、手離されて泣いた女が最後に選んだのは、手を離したあの男ではなくこの手 だ。悔いはない。申し訳ないとも思わない。この女を貰い受けると宣言した時、あの男は動揺したものの否とは言わなかった。どのような葛藤 があろうとも答えはそれで全てだ。

眠りに落ちる前、睦言を囁いたの瞳は愛しげにこちらを見つめていた。心も身体も、彼女の全てを手に入れたのだ。甘えるような声で ごねた姿を、愛らしい、可憐だと思ってしまったのは惚れた弱みと言うやつか。かつての主も、亡くなった奥方にはどうにも強く当たれなかっ たと話していた。つまるところ、男は皆、惚れ抜いた女に対してはこうなるのだろう。

それすらも悪くないと思ってしまうのは、この頭がいかれてしまったからだ。竜を駆る、地上最強の竜の騎士に仕える竜騎衆最強の男まで骨抜 きにするとは、とんでもない女に捕まった。地上最強レベルの剣士であるヒュンケルから始まってオレまで篭絡するなど、野に放していたら今 頃もっと大変な事になっていただろう。寝顔を見つめていると、が身じろぎして細い肩が顕になった。

「タフ、というのは撤回してやる」

起こさぬように肩から落ちた毛布を引き上げながら囁く。眠る女に言葉が聞こえている様子は無い。聞かれなくていいのだ。こんな、似合わぬ 事を言っているところなど見られては困る。

「――可愛い女だ。お前は」

星明りの差す暗い部屋は抱き締めた女の甘い香りで満ちている。腕の中の温もりに誘われて眼を閉じると、暖かい闇が待っていた。愛しい女を 抱いたその夜、何故か死んだ母の夢を見た気がした。



(夢主視点)


宿の部屋で目覚めると晴れた空に百貨店のバルーンが見えた。舞踊学院のコースは、この街――懐かしきベンガーナで終わりを迎える。尤も、 そうなるのはこの大会に出場する切符を手にした2名だけ。最後まで残っていた4名のうち2名は3日前に卒業している。ロモスの学院からこ こに来ているのは私と、もう一人選出された女の子だけだ。

数ヶ月前にラーハルトと恋人になってから、月に一度のペースで彼から逢いに来てくれるようになった。ただしまだ関係を公にはしていない。 隠したいのではなく、自分自身のけじめとして、この大会が終わるまでは待ってほしいとこちらから申し出たからだ。意地っ張りな私の我儘 を、一つ年上の恋人は呆れながらも受け入れてくれた。

ラーハルトとの関係が深まるに連れてヒュンケルへの気持ちはゆっくりと薄らいでいき、随分と長く彼を好きだったことを素直に認めることが 出来た。その恋を経て今のラーハルトへの気持ちが確かに存在しているという事も。

先月の逢瀬の際にベンガーナの大会に出場が決まったと話した時、優しい目でただ一言、「無様に転ぶなよ」とだけ言ってくれた彼は、パプニ カで結果の報告を待っている。本気で見に来てくれるとは思っていないし、見に来て欲しいとも思っていない。私が勝つか負けるか、それだけ の話だ。

手早く身支度を済ませ、朝食を済ませて会場に向かい、エントリーナンバーのカードを受け取って更衣室に向かう。私の番号は146番。世界 中からこの大会に出場する踊り子たちが来ている。衣装を身に纏ってメイクをし、鏡に映った自分を見つめて呪文のように唱える。

「大丈夫。私は、綺麗だ。」

頷くと両耳でラーハルトに貰ったピアスがしゃらりと揺れた。



今朝も魔翔脚を履いてみた。彼女はまだちゃんと私を受け入れてくれている。
捨て切れなかった想いを焼き尽くしてもらった時、本当はこの相棒に見放されるような気がして怖かった。けれど彼が帰った後で恐る恐る履い たブーツは、オレンジの魔法石がふわりと光って私の身体をいつもどおりに浮き上がらせてくれた。
進みなさい、と背中を押された気がした。

「痛ッ!」

本番用の靴を履いて立つと足の裏に激しい痛みが走った。何事かと足を見ると、短くて太い針が靴の裏に深く刺さっている。急いで引き抜いて 捨てたものの、傷を回復呪文で治している時間は無く、このまま本番に向かうことになる。針が刺さったのは一番体重のかかる部分だ。

陰湿な手口だ。誰かがライバルを蹴落とすために狙ってやったに違いない。しかし舐めて頂きたくはない、これでもプロだったんだ。足に針が 刺さったくらいでは棄権もしなけりゃ演技も揺るがない。

痛くなんかない。
ジクジク痛みが響くのは気のせいだ。
ロンさんのケリの方が百倍痛かった。
あれに耐えて生き延びたんだ、こんな傷くらいで負けるものか。
血が出ているのも幻覚だ。

大丈夫。

私は、負けない。



「続いて、エントリーナンバー146番!どうぞ!」



最後まで美しく踊りきることができたら、いつか彼にも見て欲しい。

少しだけ強くなった私が、誰よりも綺麗に踊る姿を。




 → And Then…?