石の床に石の壁、その上地下だから冷え切っている。体を丸めて小さくなっていないと、寒くて凍えそう。 「おや。本当に縮こまっておりますな。あのお嬢さんの仰ったとおり……」 あのお嬢さん?この近くで私を知っている女性なんて一人しかいない。まさか。 「……!ヒュンケル……貴方、さんまで!?」 そんな、どうして?もしかして私が連れられて行くのを追いかけてきたのかしら。だとしたら、私達が彼女を危険に巻き込んでしまったんだ。血の気が引いていく。彼女はアバン先生の弟子でも何でもない、ただ少し他の人より腕っ節の強いだけの踊り子さんで、そもそも魔王軍と戦うつもりで旅をしている人じゃないのに! 「……彼女は何処?」 私の懇願も聞く耳を持たず、ヒュンケルはモルグに顎で何かを指示した。すると、モルグはランタンを床に置いて後ろにいたミイラ男から毛布とストローの入った水を受け取って、牢の格子の隙間から入れてくれた。 「……これは……」 困惑する私に、ヒュンケルは冷たい声で言い放った。 「あの女がどうしてもと言うのでくれてやるまでだ。オレにお前を気遣ってやる義理はないんでな」 さんが、私の為にこれを。自分も捕まっているのに私の事を気遣ってくれたんだ。 「彼女は無事なの?」 私の問いに、ヒュンケルは答えない。彼に限って無抵抗の女の人に何かするとは思えないけど、さんはすごく美人だし、万一にも過ちが起きるかもしれない。彼が何もしなくても、魔物たちが何かする可能性だってある。不安になってじっと返答を待っても、ヒュンケルは何も言わずに踵を返した。 「勇者を始末したらお前共々解放してやる」 ランタンの光が遠ざかる。再び薄暗くなった牢の中で、差し入れられた毛布と水を見た。大丈夫。きっと彼女は無事でいる。私よりもずっと落ち着いている大人の女性だもの。無茶なことはしないはずだ。ヒュンケルだって、彼女が大人しくしているから願いを聞いてやったに違いないんだわ。 後ろ手で毛布を掴んで、苦心しながら床に敷く。石の床はさっきよりもずっと柔らかくなった。
ベッドにうつ伏せで横になったまま、右耳のピアスを外して、蝋燭の火に透かして揺らす。オレンジの石がキラキラと光を反射して綺麗だ。反対側のピアスは失くしてしまった。初めて鉱石を採りに行って、帰り道にピアスが無いことに気づいたんだ。お気に入りだから残った分をこうしてつけている。なんとなく眺めると気持ちが落ち着く気がして。 昨日のヒュンケルの話はこうだ。 溜息が出る。やりきれない話だ。ダイやポップ、マァムは尊敬する師匠に教えられた道を歩もうとするだろう。そのために魔王軍と戦っている。けれどヒュンケルにとって、一番重要なのはアバンさんじゃない。アバンさんに倒されたという、父親だ。父親を失くした悲しみに囚われたまま、ヒュンケルは憎しみを溢れさせている。
どっちが正しいかという問題じゃない。勇者が魔物を倒す、平和のために戦う、言葉は綺麗だけれど行っているのは正義の名の下に正当化された暴力に過ぎない。正当防衛だと多数が口を揃えて叫べば、それは罪ではなく正義に変わる。私のいた世界でもここでも、人間がいる世界では不変のルール。 いつだって変わらない世界の秩序。勝者が平和を享受し、敗者の悲しみは歴史に残らない。ヒュンケルは勝者側の人間社会に属していたはずが、運命の悪戯で敗者側、つまり魔王軍側で育ったために、このやりきれないジレンマに苦しむ羽目になったわけだ。 ならどうなれば良かったのか。戦場で赤子のまま死ねれば幸せだったのか。それは違う。魔物とはいえ自分を育ててくれた父親との間に父子の絆が芽生えたほどなら、束の間だったとしても幼い彼は幸せを感じていたんだろう。彼を拾い上げたのが人間だったとして、その人間が善人であるとも限らない。魔物であっても優しい父親に拾われたのは、彼にとって幸運だったことは確かだ。怪物の棲む島で同じようにブラスさんに拾われて育ったというダイの様に。 私が搾り出した言葉はたった一つ。 「話してくれてありがとう……辛いこと、思い出させてごめん」 こんなショボイ感想だった。だって他にどう言えば良いのかわからない。暗いヤツだと思っていたけど、そんなヘヴィな過去があったら暗くなってもしょうがない。私の幼少期も相当なもんだけど、彼ほど常識外れではない。周囲は魔物しかいない世界で育ってこれなら、むしろ会話が成立するだけマシなのかもしれない。 「戦いが始まったらお前を解放するように部下に申し付けておく。装備と荷物は解放する時に返してやる」 つまりは、現状維持だ。むしろ捕虜に対しての対応としては非常に甘いと言える。何しろ両手フリー、両足フリー、装備と荷物が無いだけ。私が呪文を使えるってことを彼は知らないから強行してマァムを見つけることもできなくはない。けれどそうする気にならないのは、あの執事があまりにも一生懸命、彼を喜ばせようと頑張っていたから。モルグという魔物にとってはヒュンケルはいい主なんだろう。私がモルグに料理を教えることになったのも、ヒュンケルがあの執事を信頼しているからだ。その関係を直接目にしてしまっては、簡単に裏切る気にはなれない。 さっき確認したけれど、この部屋の扉は既に鍵をかけられていない。出ようと思えばいつでも出られる。だけど、だからこそ出られない。 開いたままの鍵は、モルグの情だ。あの魔物は私が逃げないと信じている。その情を、ヒュンケルはあえて放置している。部下の独断で人質が逃げ出しそうだというのに許しているんだ。私が逃げたら、モルグは責められる。それは可哀想だ。 「…………よし。待とう。」 勝手に動くと状況が悪化する恐れもある。ここは穏便に待つのが吉と考えて、私は蝋燭の火を消した。
(ヒュンケル視点) 地底魔城に潜入してきた女は、モルグ曰く名をというらしい。攻撃はしてこなかったため、武器と思われる装備を全て奪えば脅威にはならないと考えて、客室に監禁することにした。年の頃はオレと変わらないだろうか。見目は整っており、伏せられた瞼を長い睫毛が縁取っていた。処置をモルグに任せ、牢にいる娘と話をしてイラついている所で、何故かモルグが女から料理を教わりたいと申し出てきた。 モルグが何かを請うのは稀だ。この魔物はオレを主として尽くしてくれている。期待に満ちた執事の目に押されて、女を連れ出すことを許す代わりに、逃げ出さないようにオレが見張ることになった。良くわからない状況だったが、執事の嬉しそうな表情を見るのは初めてなので何も言えず、恐る恐るモルグの後に付いてきて料理の指示を出す女を睨みつけた。女も自分の置かれた状況の異様さには気づいているのか、「私なにやってんだろう」と呟いた。オレが聞きたいくらいだ。呆れて面倒になり、ふと考えた。 監視を外したらこの女はどうするだろう。やはり逃げるか。逃げるチャンスはいくらでもあっただろうに逃げずにいるが、監視を外せば本性を見られるかもしれない。静かに監視を止めて女の部屋に向かう。逃げずに戻ってくれば、明日にはマァムに会わせてやらんでもない。いや、それは甘すぎるか……そもそも戻ってくるわけが無い、と思っていたら本当に戻ってきた。この女、もしや馬鹿なのか。 オレがいる事に気付くことなくベッドに倒れこんだ女は無防備で、警戒心が全く無い。敵の本拠地で捕虜にされておいて、どういう神経だ。なにやら独り言を呟き始めたので、気付かれないままもどうかと思い声をかけると、女は飛び起きた。寝転がりながら男と話すほど緩みきってはいなかった。 何故逃げなかったのか。オレの質問に、女は答えた。モルグが自分を信じているからだと。加えて、今逃げてもすぐに捕まる、と。後者は賢明な判断だ。中にいるとわかりにくいが、外は既に夜中だ。脱出した所で暗闇を彷徨い歩くだけで再び捕らえられるだろう。しかし前者の理由については不可解だ。この女は魔物の執事を信用しているというのか。 そもそもオレを攻撃しない理由もわからない。アバンの使徒ならば反撃してくると思っていた。しかし予想に反して、聞けばこの女はアバンの使徒ではないと言う。真実であることは、その後マァムの口から彼女が無関係だという言葉が出て確認できた。 無関係。それゆえだろうか。 女はオレが部屋を出る際に、一つだけ、と願いを口にした。 “もしマァムを牢で縛り上げているのなら、せめて毛布と水は与えて欲しい” 叶えてやる気になったのは、女がオレの部下に対して礼儀を見せたからだ。敵とは言え、相手の信頼に応えようと誠意を見せた者に対する礼儀を欠くわけにはいかない。武人としての矜持がある。 「……馬鹿馬鹿しい」 父を殺したアバンの弟子を始末して、何れハドラーもこの手で葬る。オレが為すべきことはそれだけだ。
朝は昨日よりマシになったスープとパン、昼食は無し。食事を与えられるだけでも相当な好待遇だと思われる。だってマァムは多分まだ牢屋だ。対して私は鍵もかけていない部屋に留置されているだけで、ベッドもある。まさかこの差はアバンさんに関わっているかいないか、だろうか。あの男の考えは読みやすいようでよく解らない。 「…………ダメだ……ヒマすぎる」 ダイとポップが来るまでは何をしていようと同じだ。のんびりベッドの上でゴロゴロしているだけじゃ運動不足で体も鈍る。ベッドの上で体を起こして柔軟運動をしっかりやって石の床に裸足で立つ。この部屋は私の世界で言えばヨーロピアン風、クラシックな装飾。雰囲気に合わせるとすればやはりこれだ。 背筋を伸ばして爪先立ちになり、ゆっくりと足を前に出す。 バレエを始めたのは、10歳頃だった。ダンサーになりたいと言い出した私に、始めるならバレエからと父の友人が助言してくれて、バレエ教室に通い始めた。初めは股関節を柔らかくするのに苦労して、足も上がらなかった。早い子は5歳くらいから始めているのに、私は10歳から。自分より小さい子たちが地面にお尻をぴったりつけた状態で180度足を回せるのが羨ましくて、早く彼女たちに追いつきたくて、痛いのを我慢して柔軟をやっていたっけ。 部屋の真ん中に立って深呼吸を一つ。白鳥の湖・黒鳥のバリエーションを踊り始める。 妖艶に王子を誘惑する黒鳥。優美で儚げで処女性の強い白鳥よりも大人びていて神秘的な役。振り付けもそれらの要素を表現されることが求められる。あのバレエ教室で全部表現できたのは私だけだったのに、本番に踊れなかった事が悔しくて、インフルエンザが治った後2週間くらい引きずった。体調管理に気を配るようになったのはそれからだ。 ふと視線を感じて動きを止め、ぎょっとした。 「……あ……あはは、あの……何か……?」 ちょっと恥ずかしい。ダンサーをやっている以上は人に見られるのには慣れているけれど、無言で凝視されるとこっちも素になってしまう。 「……踊り子か。道理で派手な格好をしているわけだ」 指摘された自分の格好を見る。チューブトップにショートパンツ、それにストールのどこが派手なんだろう。 「何か用?もしかして解放してくれんの?」 情報というのは、おそらくダイとポップのことだ。彼らの動向がわかったのか。 「明日にはやつらが再び戦いを挑んでくる」 この男がどれほど強いのか、私はよく知らない。だけど敵のリーダーという事は、クロコダイン並みに強いって事だ。ロモスのお城を半壊させたあの怪物と同等だったら、ダイ達が苦戦しないわけがない。もしかしたらそれ以上に強い可能性も十分ある。 「重ねて言うが……くれぐれも妙な気は起こすな。何もしなければ無事に逃がしてやる」 どうしたもこうしたも無い、小さい子供に本気で暴力なんて彼には似合わないと思ったから止めたいんだ。だけどここまで憎しみで凝り固まった頭と心を解すのは、一朝一夕では出来ない。頭ではわかっているから、私だってそれについて言葉を控えてはいた。けれど。 「あんたがアバンさんを憎んで、その延長で彼らにも憎しみをぶつけるのは仕方ないと思う。魔王軍だから勇者を迎え撃つのも、頭では正当防衛だってわかってる。でも、」 “でも、あんたがそうすることをお父さんは望んでいるの。” 口から滑り落ちそうになった言葉を、咄嗟に飲み込んだ。 ヒュンケルは悲しみを憎しみに変えることで自分を支えて生きてきたんだろう。アバンさんを殺すことを目標に生き延びてきたのだとすれば、その生き方を批判するという事は彼自身のお父さんに対する想いも傷つけてしまうんじゃないだろうか。 「っ……ごめん。なんでもない……」 ここで私まで彼を批判したら、彼は傷つき怒るだろう。その怒りはダイとポップに向けられるかもしれない。せめて私だけでも中立でいるべきだ。 「……教えてくれてありがとう。あと半日、じっとしてるから……安心して」 ヒュンケルは私の答えを聞いて暫くこちらを見ていたが、ややあって部屋を出て行った。マントを翻す後姿は孤高で、哀しげに見えた。 |