が襲撃を受けてからおよそ半日が経過した。ラーハルトはレオナから仮眠をとって休むようにとダイを通して命じられて渋々自室に 入っていったが、仮眠というのは建前で、実際は彼の暴走を止める措置であることは容易に想像がついた。 茨と、薔薇。 植物に詳しくないヒュンケルでも、茨と言われると薔薇の蔓を一番に連想する。実際は茨は棘のある木を総称するものだが、現状では茨と薔薇 の紋章の関連性を無視できない。 彼女を襲った黒衣の女がラーハルトの知る人物と同じならば、ヒュンケルが入手した羊皮紙に描かれている紋章を有する人物を探せばどこかで 行き着くはずだ。しかし、だとすれば今回 を襲った原因は少なからず魔族側にあるということになる。もしその仮説通りなら、彼女は魔族から危害を加えられたことになる。 そしてラーハルトの両親と黒衣の女の有する紋章は、どういうわけかヒュンケルが入手した羊皮紙に共に並んでいる。ラーハルトにとってみれ ば、両親の素性と に危害を加えた人物が繋がるかもしれない。つまりこの事件そのものが彼の意図せぬところで彼自身の過去と関連している可能性も出てくる。 自分の所為で恋人が酷い目に遭っていると最初から考えたがる男はいない。ラーハルトもまた、それを認めたくなかったから苛立っていた。し かし今の状況では羊皮紙に書かれている紋章の正体を知るべきだとしか思えない。 しかしこの懸念を大っぴらにするのはまずい。どこに誰の耳があるかわからない以上、確証もないうちにこの話をダイやレオナにするのは尚早 だとヒュンケルは判断した。何故なら、この話が周囲に知れたらそれこそ人魔共存を叩く言い訳を敵陣営に与えることになる。レオナたちのみ ならず、ヒュンケルやラーハルト自身にとっても望まない展開になることは明白だ。 今のところ、ラーハルトが両親から授けられた不思議な紋章と黒衣の女、そして彼の持つ紋章と並んで羊皮紙に書かれている薔薇の紋章と茨の 呪いの関係性を疑っているのはヒュンケルとラーハルト二人だけだ。関連があると決まったわけでもない。 の首に巻き付いた茨は、昼過ぎに様子を見た時は首が覆われた程度まで進行している。あと一日経てば胸辺りまで伸びるだろう。進め ば進むほど体力の消耗が激しくなるのだとマトリフは忠告した。あの経験豊富な老人が言うのだから間違いないのだろうとヒュンケルは考えて いる。 まずは黒衣の女を探し出すことが優先だ。誰が何の目的で彼女を狙ったのか、呪いの解き方を知る者はいないのか。黒衣の女がそれらの答えを 持っているはずだ。かつて想いを寄せた女性の命が危機に晒されているのに、ヒュンケルには情報を求めて動く事しかできない。焦りが募る気 持ちを抑えながら、ヒュンケルは高台を降りて深呼吸を一つした。 一際強い風が吹き、銀の髪を激しく揺らす。 * の襲撃事件は少数精鋭で取りかかるべきだと判断したレオナは、ポップに頼んでマァムとメルルを呼び寄せた。確証が無いにしろ、反対勢力の手によって計画 された襲撃であれば城の人員の中に敵の息がかかったものがいる可能性がある。情報が漏れて更に後手に回るより、信頼のおける仲間に協力を 依頼した方が安心できるというのも理由だが、一番の理由はラーハルトの状態だ。恋人の身にかけられた呪いが死に至 るものと知り、表面上は騒ぎ立てることなく静かにしているが、明らかに平常心を失くしている。 ただでさえ人間不信の彼にとって、主であるダイとは違った形で大切にしている人間が だった。言い換えれば今の彼に取って彼女が世 界で一番大事な女だ。その恋人がくだらない人間の権力争いに巻き込まれた上に致死の呪いを受けているのだから、よく知りもしない人間の兵士を増員するよりも、大戦を潜り抜 けた仲間の方がラーハルトも少しは気が収まるだろうという、レオナなりの配慮だ。権力争いに仲間を巻き 込んでしまった個人的な申し訳なさもある。 それにかつての仲間が傍に居れば万が一、ラーハルトの堪忍袋の緒が切れてもどうにか収拾がつくかもしれない。地上戦では最強レベルの戦士 の彼を倒せるのは仲間内でも数人しかいないだろうが、足止めくらいなら仲間の誰でも少しはできる。打算込の心配しかできない自分に嫌気が さしつつも、レオナはヒュンケルとラーハルトを伴って、城の門に到着したメルルとマァムを出迎えた。 「ポップさんから状況は聞いております。すぐにでも犯人の居場所を探す準備に入ります」 メルルは3年前よりも背筋をぴんと伸ばして告げた。15歳だった少女は占者としての能力を着実に磨き、可憐だった面立ちは静かで神秘的な 美しさを醸し出す女のそれに変貌している。引っ込み思案だった少女はただの控えめな女の子ではなく、落ち着いた雰囲気の女性になってい た。 「メルル。こちらには目撃者が数名いるだけなんだけど……」 「全力を尽くしますわ」 はっきりとした声で答えたメルルは城の人間に案内されて早速占いの準備に取り掛かる。メルルが去るのを待たず、マァムは緊張した面持ちで レオナに尋ねかけた。 「レオナ、回復呪文治療は本当に不可能なの?」 「ええ。体力を吸って強力になる呪いだから、魔法力で体力を回復させても呪いの進行を早めるだけなのよ」 「そう……なら介抱はお城の人に任せて、私も犯人の手掛かりを探すのを手伝った方がよさそうね」 マァムは大戦で得た報奨金をつぎ込んでロモスの町外れに小さな孤児院を設立し、そこで身寄りを失くした子供たちを育てる活動に勤しんでい る。人の為に役に立てる何かをしたいと考えた彼女が行き着いたのが少しでも多くの子供たちを復讐の怨嗟から救い出す道だった。ロモス王の支 援もあって十数人の僧侶をまとめあげながら慈善活動をしている。 今回の件では孤児院を僧侶たちに任せて時間を作ってきてくれたのだ。 「ダイくんはポップ君とアバン先生の所に行ったわ。カールで何も収穫が無ければ、テランの大図書館に向かって文献を調べてくるって」 「そう。それじゃ私は、城下町で黒服の女性の手掛かりを探してみるわ」 「オレも行こう。手分けした方がいい」 「久しぶりなのに話してる時間も無いわね、ヒュンケル」 説明を受けてマァムとヒュンケルが城下に足を向け、無言で後に続こうとしたラーハルトの肩をヒュンケルの手が押し止め、首を振る。 「ラーハルト。貴方は彼女についていてあげて」 「っ……!」 「他の誰が傍に居れるというの?目が覚めた時に傍に貴方がいなかったら彼女がどれだけ寂しいか考えてあげなさい」 レオナの言葉に、ラーハルトは盛大な舌打ちをして城の中に足を向け、大股で城内へと消えた。不機嫌を全開にしている槍使いの後姿を見送っ たレオナ、ヒュンケル、マァムの三人はいよいよ状況がひっ迫してきたことを感じ、顔を見合わせる。 「はあ……二人とも早めに戻ってきて。そろそろ私じゃ御しきれないかも」 「可能な限りは」 「夕暮れには戻ってくるわ。それまで持ちこたえて頂戴」 力なく頷いたレオナを気にしつつ、マァムは先に歩き出したヒュンケルを追う。 城下に向かって歩き出した二人を見送り、パプニカ女王は頭を掻きむしりながら一発盛大に叫んだ。 「〜〜〜ったくもぉ、どこのどいつよ!?余計なことしたのはーっ!」 * パプニカの城下でマァムと別れたヒュンケルは、真っ直ぐにある場所を目指して足を速めた。ヒュンケルとてこの数年でやるべきことを熟考し て生きてきた。その中で思い知らされたのは、情報提供者の存在の重大さだ。カールとパプニカを行き来する仕事を初めてすぐ、政治上の問題 にかかわることになったヒュンケルは、様々な裏事情に精通した協力者というものが如何に大切かを理解した。 彼が今向かっているのは正に、その情報提供者の所である。昨晩は事態がどういう流れで起きているのか不透明な部分があったが、パプニカの女 王反対派が関わっている可能性があるならば何かしらの情報を入手できるかもしれないと考えた。 情報提供者は薄汚れた漆喰の建物の地下に店を構えており、店は夜には世間様から顔を顰められるようなならず者が集まる。堅気ではとても入 れない場所だが、脛に傷どころか脛がへし折れるくらいの過去を持ったヒュンケルは、この場所を見つけて訪れた夜、初っ端から突っかかって きた店の用心棒の腕を捩じりあげて捻じ伏せ、一睨みでこの地下酒場のヒエラルキーの頂点を奪った。以来この場所に彼が訪れると店主は一番 いい酒を出すし、満席でも席が彼に譲られるし、情報以外で金など取られたことも無い。 本人は何故そうなるのか一切理解していないのだが、ヒュンケルは見た目ハイスペックなくせして醸し出す空気はそこらのやんちゃな若造とは レベルが違う。そしてこの店に来る程度のならず者がやらかしたこともない、シャレにならないレベルの重罪を犯しているので背負っている影 もハンパではない。それなりにわかる人間からすれば“手を出したら絶対にヤバイ”種類の男だ。 突っかかって来る酔っ払いも軽くいなしてしまうので、彼にケンカを売ろうなどと思う阿呆は新顔くらいで、今やこの店に手を出したらメタク ソに強い銀髪の男に骨が粉々になるまでぶちのめされるなどという尾ひれまでついている。ちなみにその辺、本人は全然知らないので、情報以 外は何故か金を取らないこの店を、そこそこ親切な所だと思っていたりする。 ヒュンケルが漆喰でできた階段を下りて焦げ茶の古びた木のドアを開けると、店には数人のガラの悪い男たちとウエイター、そして店主が居 た。 「こりゃあ旦那、お世話んなっとります」 「人を探している」 開口一番に店主に用件を伝えると、店主は人ねえ、と呟いた。ヒュンケルの情報収集というのは基本的に雑だ。回りくどく聞くことは無い。遠 回しに質問して答えを引き出すなんて技術を持ち合わせていないので、いつも聞けるところまではハッキリ聞く。正しくは、店主に金を渡し (時々脅して)聞き出す。 「名前はおわかりで?」 「わからん。だがやったことはわかる」 「へえ、何をやらかしたんでさ」 「パプニカの劇場を襲撃した人物だ」 「ああー、あれですな。巷で大人気の踊り子、元勇者様の側近の恋人が何者かに襲われたってやつだ。えらい騒ぎだって聞きましたねえ」 へらへら笑いながら話し出した店主の話し方が不愉快でヒュンケルは思わず眉根を寄せた。確かにその話で間違ってはいないが、なにしろ襲わ れたのは親友の恋人で、昔の想い人である。他人に笑いながらネタにされて気持ちのいいものではない。 「に、睨まねぇでくださいよ旦那。ただの事実だ」 「……まあいい。その話だが、二人の関係は城下でも?」 「いやぁ、信じてる人間は多くねえです。というより信じたくねえんだ、まあ要するにやっかみですな。とびっきりのイイ女を魔族の男に取ら れちまったってんだから」 店主の説明にヒュンケルは複雑な気持ちになった。 は大戦時から華のある女性で、彼が恋焦がれていた頃も幾度か見知らぬ男に声をかけられていた。3年経って踊り子としてトップに立った はあの頃よりも輝き、吸引力のようなものは力を増している。多くの男が手に入れたいと願う存在だからこそ、誰かのものになってほしくないと願う男も増え た。恋想う故に現実を受け入れられない、そういう心境についてはヒュンケルにも身に覚えがある。 「しかしねえ、あの踊り子も実力派だし善人ではありやすが、大概恨みを買ってやすぜ」 「恨み?」 「そりゃあそうでしょう。なんせ半年そこらでそれまでのダンサー蹴落として伸し上がってんですからね。その上、男に貢ぎまくられても恋人 以外には目もくれねえときた。諦めきれねえ粘着なのがしつこくやってるって話は有名でさぁ。ヒルホワイト候の息子とかね。関係者はみんな 知ってますぜ」 「ヒルホワイト……」 店主の口から出てきた人物を記憶し、ヒュンケルは本命の話に戻した。 「……劇場で目撃した人間によれば襲撃者は黒ずくめの女だったという。心当たりはないか」 質問を受けて、店主は無言でコップを一つ磨き、ウエイターに顎で指示を送る。途端、ウエイターがどこからかリュートを持ち出して店の中で 演奏を始めた。聞かれたくない話を店主がするとき、この店はいつもこうするのだ。店主はヒュンケルに髭面をずいと近づける。中年男独特の 匂いに不快感を覚えてヒュンケルは眉を顰めた。 「2割増しでさ」 「……調子のいい事だ」 ヒュンケルが溜息交じりにポケットから小銭入れを出してカウンターに置き、ずっしりと重い小袋がドンと音を立てたのを確認すると店主が口 を開く。与えられる情報が小銭入れの中身と釣り合う事を願い、ヒュンケルは店主の言葉に耳を傾けた。 * 大股で不機嫌を露わにして城内を歩いていたラーハルトは、すれ違うたびビクビクと怯える兵士にあからさまに舌打ちした。彼は武人としては 一流であり、自分の状態を客観的に判断する能力は人より秀でている。今も、自分が平常心を失っており、恋人の件について外で何か口さがな い事を言われているのを聞いたら何をしでかすかわからない事も自覚している。そして、一国を総べる王としてレオナが彼を外に出さない判断 をしたのも間違いではないと頭ではわかるのだが、気持ちの面で納得などいくはずがない。当事者だから隔離される、歯痒さだけが彼の心を波 立たせる。 はラーハルトの隣の空き部屋に移されているが、彼は今朝から一度も彼女の顔を見ていない。すぐそばに恋人がいるというのに顔を見に行きたいと思えないの は、苦しむ姿を前にして何もできない自分に腹が立つからだ。自室の隣の部屋を静かに空けると、ちょうど侍女が席を 外しており は一人で眠っていた。起こさないようにゆっくりと歩を進め、顔が見える場所まで近づいて、ラーハルトは拳を強く握りし める。 一目でそれと分かる苦しげな表情と荒い息遣い、今まで見てきた中で一番心苦しくなる恋人の寝姿にラーハルトはただ打ちのめされた。首から 伸びていた茨は今や彼女の美しい首を全て覆い尽くして、肩までも侵食しようとしている。それでもマトリフの見立てでは、これで侵食は遅い 方だという。むしろ彼は呪いの進行が遅れていることを褒めた。呪いの進行が遅いということは、 自身が生きる力を持ち続けて抵抗しているということだ。相変わらず見た目以上にタフな姉ちゃんだと彼女を評した年老いた魔導士は、 住まいである洞窟に戻って休んでいる。 は今、自分を殺そうと蔦を伸ばす茨を無意識の内に食い止めている。死んでたまるかと、閉じた瞼の下でも瞳をぎらつかせて、魂を燃やして生きようとしてい るのだ。マトリフの言葉を思い出し、ラーハルトは僅かに苦笑した。自分の終わりを他者に決められるのが嫌いな、しぶとい彼女らしい抵抗だ と思ったのだ。 この女ならば、もし先に彼女が老いてしまおうとも愛せる自信がラーハルトにはある。 には自分の道を揺るぎなく進むことの覚悟ができている。精神的にも身体的にも他の人間の女に比べてタフだ。しかしだからと言って傷つけたり、苦しませて いいわけではない。男として生まれ、一般的な男としての価値観で行けば、たとえどんな強い女であろうが恋人は自分の手で守りたいのがラー ハルトの本意だ。 喪いたくない。ラーハルトは拳を強く握り、俯いた。彼女を喪うとすれば、それは他者に傷つけられたものを原因としない、幸福で安寧な死で なければならない。ワケのわからない呪いなどで が命を落とすようなことがあってはならない。竜騎衆最強の男が選んだ女ならば尚更だ。 小さな椅子に腰かけて恋人の髪に手を伸ばす。白いシーツに散った波打つ黒髪は、普段の彼女ならばすぐにでも水を浴びたいと言い出すくらい にしっとりと汗を含んでいた。ラーハルトが洗面器に張られた水で額のタオルを冷やし、よく絞って額の汗をそっと拭いてやると、 の瞼がゆるりと開いた。 「……!」 恋人の目が覚めたことで、ラーハルトは思わず椅子から立ち上がり、汗ばむ彼女の頬に触れた。掌で頬を撫でる男の熱を、 は心地良さそうに目を細めて受け止める。美しく整った顔には、苦しさを我慢してラーハルトを安心させようとする笑みが浮かんでいた。 「……ラー……ハルト……ここ、どこ……?」 聞こえてきた声のあまりのか細さにラーハルトは胸が締め付けられる思いだった。出会ってから今まで一度たりとて大病など患ってこなかった 彼女の声は、いつも溌剌としていて耳触りのいい声だった。それが呪いの影響で体力を削り取られて蚊の鳴くような声しか出せないでいる。見 た目以上に弱り切っているのだ。 「……パプニカ城だ。襲撃されて運び込まれた……覚えているか」 「ん……なんとなく……」 ラーハルトは平静を保とうとしたが、口から出た声は掠れていた。愛する女を危険から守りきれなかった己の不甲斐なさで叫びだしそうな自分 を抑え込み、弱弱しく微笑む恋人の頭を撫でた。いつも以上に優しく触れた恋人の青い手に、 はそっと自分の手を重ねる。 「誰にやられたか、わかるか」 恋人の問いに は目を閉じてゆるゆると首を振った。暗闇で視界も悪く、相手も顔の全てを晒していなかったのだからわかるはずもない。声も聞いたことの無 いものだった。しかし一方的に攻撃を受ける形になった自分を情けなく思ったのか、 は申し訳なさそうに恋人を見上げた。ラーハルトは最早何も言わず、ただ黙って彼女の頭を撫でた。責めてなどいない、自分の心配をしろと言ってやりたかっ たが、言葉が絡まって出てこなかったのだ。 「へい……き……心配……しないで……」 愛する女の口から零れた言葉は、彼が幼い頃に母の紡いだ言葉とよく似ていた。人間だった彼の母もまた、迫害され続ける環境に疲れ果て、身 体を壊して床に伏せった。母の身を心配して隣で看病をしていた幼いわが子に同じような事を言った。今の彼女のように、弱弱しく、優しい微 笑み を浮かべて。 「――心配などした覚えはない。お前はいつも好きにやる女だ」 「……ん……そう、かも……」 記憶の片隅に押し込めた辛い過去が蘇りかけて、ラーハルトは強がりを口にした。憎まれ口を叩いていなければ頭が怒りで頭がおかしくなりそ うだったからだ。槍を持てば一騎当千の男が膝から崩れ落ちてしまいかねない。ただ一人愛する女にだけはそんな姿は見せられないという意地 だけで、外面だけの平静をかろうじて保っている。 ラーハルトがじっと怒りを堪えながら恋人の頭を撫でていると、やがて彼女の双眸が閉じ、再び寝息が聞こえてきた。安らかではなく苦しげに 眉根を寄せている寝顔が、半魔の男の胸を強く締め付ける。こんな苦しみを味わわせたくて隣に居るのではない。 自分を殺してやりたい気持ちにすらなっている。 目に見える敵ならば槍の一閃で蹴散らすことができる。しかしこの場で彼は無力だった。苦しむ恋人の額を濡れた布で拭ってやることしかでき ない。まるで過去に戻ったかのような焦燥感が彼の心に憎しみを抱かせる。それこそが相手の狙いなのだとわかっていても、世界で一番愛する 女の命が奪われようとしているのに平静でいられる男などこの世にいるわけがない。戦神のようなかつての主ですら愛する妻の死に耐え切れず 一つの国を消し飛ばしたのだから。 自尊心を傷つけられ、無力だった幼き日の古い思い出を嫌でも思い出してしまう状況に、ラーハルトはただただ耐えるしかない。薔薇園から飛 んできたらしい赤い花弁が、風に乗って の頬に一つ舞い落ちた。甘い芳香を柔らかな表面残す花弁を指先で抓んで取り除き、血の気の失せた彼女の唇に触れるだけの口付けを落とすと、ラーハルトは 目を閉じて手を組み、侍女が戻るまで の傍に黙ってついていた。 |